1868-1958(明治1-昭和33)
水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸で生まれる。幼名を秀蔵・秀松と言ったが、後に母方の姓横山を継ぎ、名も秀麿と改めた。1893(明治26)年、東京美術学校を第一回生として卒業。在学中は岡倉天心と橋本雅邦の指導を受けた。 |
日・月蓬莱山図 1900(明治33)年頃 |
横山大観(左幅)と下村観山(右幅)による合作の「蓬莱山図」。 蓬莱山(ほうらいさん)は、中国の神仙思想で説かれる霊山。渤海(ぼっかい)の東に位置し仙人が住み、不老不死の薬があり、璧(へき)の宮殿があるとされる理想境。吉祥図としての性格がつよく、東洋画の代表的な画題となっている。 「日の出」(右幅)には樹叢に羽を休める鶴を、「月の出」(左幅)には、空ひくく飛んでゆく鶴と海辺に遊ぶ亀を描き込んでいるが、いずれの幅も、線描の引き重ねを排し、空刷毛(からはけ)による面的な彩色により、海上に浮かぶ霊山を雄大にかつ調和をとりつつ描いている。 そのため静寂のうちに神聖な霊山の雰囲気が見事に表現されているが、その典型的な朦朧体(もうろうたい)の描法には、当時の新聞から厳しい批評が加えられている。 なお大観と観山は本図の他に、朦朧体による同様の画題の対幅作品(≪蓬莱山の図≫宮内庁蔵 明治33年)を描いている。大きさの点では、後者の方が小幅であるものの、「日の出」・「月の出」の分担は同じであり、これらの作品は、両者の画家としての関係や朦朧体に対する取り込みをみる上で、興味深い問題を提起していると言えよう。(Tm) |
群青富士 1917・1918(大正6・7)年頃 |
《群青富士》は、金泥地の上に、やや俯瞰的に、湧き立つ白い雲(中景)を両隻にわたって流し、左隻に繁茂する樹叢(近景)を、そして右隻にその頂にまだ数条の雪を残す富士(遠景)を描いた作品。 限定されたモティーフではあるが、富士の山肌の群青、雲や残雪の白、樹叢の緑青のそれぞれが、重厚でかつやわらかな性格を示す金泥とよく響きあい、デザイン的な構成のうちに、すがしがしい初夏の富士の景を描き出している。 |