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横山 大観
TAIKAN Yokoyama

1868-1958(明治1-昭和33)

水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸で生まれる。幼名を秀蔵・秀松と言ったが、後に母方の姓横山を継ぎ、名も秀麿と改めた。1893(明治26)年、東京美術学校を第一回生として卒業。在学中は岡倉天心と橋本雅邦の指導を受けた。
1896(明治29)年に母校の助教授となるが、1898(明治31)年校長の天心と共に辞職して、日本美術院の創設に加わった。
1914(大正3)年に有名無実と化していた日本美術院を再興し、その盟主として終生院の指導にあたった。
1937(昭和12)年、第1回文化勲章を受章。
官立の東京美術学校から在野の日本美術院へと、その活動の舞台は大きくかわったものの、菱田春草と共に朦朧体(もうろうたい)を提唱した明治期、新光琳派と称される程に琳派を研究した大正期、又水墨画を数多く描いた昭和期と言うように、その70年にわたる画業は、常に日本画の新しい表現を追求する、旺盛な制作意欲と探求心にあふれたものであった。この点で大観は、明治・大正・昭和(戦前・戦後)にわたって活躍した、まさに近代日本画の推進者と呼ぶべき画家である。


日・月蓬莱山図 日・月蓬莱山図

日・月蓬莱山図

1900(明治33)年頃
絹本墨画淡彩 掛幅装 対幅
(各)98.0×154.0cm
昭和57年度購入

横山大観(左幅)と下村観山(右幅)による合作の「蓬莱山図」。 蓬莱山(ほうらいさん)は、中国の神仙思想で説かれる霊山。渤海(ぼっかい)の東に位置し仙人が住み、不老不死の薬があり、璧(へき)の宮殿があるとされる理想境。吉祥図としての性格がつよく、東洋画の代表的な画題となっている。 「日の出」(右幅)には樹叢に羽を休める鶴を、「月の出」(左幅)には、空ひくく飛んでゆく鶴と海辺に遊ぶ亀を描き込んでいるが、いずれの幅も、線描の引き重ねを排し、空刷毛(からはけ)による面的な彩色により、海上に浮かぶ霊山を雄大にかつ調和をとりつつ描いている。 そのため静寂のうちに神聖な霊山の雰囲気が見事に表現されているが、その典型的な朦朧体(もうろうたい)の描法には、当時の新聞から厳しい批評が加えられている。 なお大観と観山は本図の他に、朦朧体による同様の画題の対幅作品(≪蓬莱山の図≫宮内庁蔵 明治33年)を描いている。大きさの点では、後者の方が小幅であるものの、「日の出」・「月の出」の分担は同じであり、これらの作品は、両者の画家としての関係や朦朧体に対する取り込みをみる上で、興味深い問題を提起していると言えよう。(Tm)


群青富士

1917・1918(大正6・7)年頃
絹本着色 六曲一双屏風(各) 176.0×384.0cm
昭和56年度購入

《群青富士》は、金泥地の上に、やや俯瞰的に、湧き立つ白い雲(中景)を両隻にわたって流し、左隻に繁茂する樹叢(近景)を、そして右隻にその頂にまだ数条の雪を残す富士(遠景)を描いた作品。 限定されたモティーフではあるが、富士の山肌の群青、雲や残雪の白、樹叢の緑青のそれぞれが、重厚でかつやわらかな性格を示す金泥とよく響きあい、デザイン的な構成のうちに、すがしがしい初夏の富士の景を描き出している。
金泥地の上に、群青の富士と白雲を配する富士図は《雲中富士図》(1913・大正2 東京国立博物館蔵)と《雲中富士》(1915・同4)の2点が知られているが、落款・印章より大正6・7年の制作と考えられる本図は、樹叢をモティーフに加えることによって、より豊かで、雄大な色彩画面を構成することに成功している。
「自己の魂をうつす鏡」として富士をとらえる大観は、これ以降昭和期をとおして、実に多くの富士図を描いている。そして、国粋主義的な富士観が強まった昭和期の作品に水墨画が多く、類型化の傾向が認められるのに対し、大正期の富士図は、それぞれ明るく自由な画面を展開している。 これは、大正という時代の独特の精神によると共に、菱田春草(1911・明治44没)・今村紫紅(1916・大正5没)亡き後、新光琳派と称される程、琳派に傾倒し研究したカラリスト大観の資質によるところが大きいと、言うべきだろう。
そのような時代にあって、当館所蔵の《群青富士》は、簡潔な構図のうちに、躍動感と装飾性を示す、近代的な富士図として、一際高い評価を受けている作品である。(Tm)


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