1747-1818(延享4-文政1)
江戸に生まれる。父は町人であったらしい。名は峻、字は君嶽、号は不言道人、春波楼など。はじめ狩野派に入門し絵を学ぶが、粉本伝写による画技修練に飽きたらず、のちに長崎派の画家・宋紫石に南蘋派を学ぶと同時に、春重の名で鈴木春信ばりの浮世絵を手がけたりした。安永年間(1772ー81)に、平賀源内・小田野直武らの影響により洋風画に転じ、天明3(1783)年には日本最初の銅版画制作に成功。同8(1788)年頃からは油絵も描きはじめ、寛政年間(1789ー1801)を中心に、西洋の手法を取り入れた油彩による日本風景図を相次いで世に出した。なかでも富士山を主題にした作品は多い。また、天文学や地理学についても、当時にあっては先駆的な業績をのこした人物として知られる。晩年には進歩的な哲学者、社会思想家として『春波楼筆記』などすぐれた随筆をのこした。 |
駿州薩陀山富士遠望図 1804(文化1)年 |
江漢は天明8年(1788)長崎遊学のため東海道を旅し、駿河で富士山を見ている。その時のことは後の自筆本『西遊日記』や版本『西遊旅譚』に挿図入りで紹介されている。長崎の遊学から戻った江漢は、油絵の制作に精力的に取り組み、日本風景を描いた洋風の風景画を次々と発表した。富士山も格好の主題として取り上げられた。 |
「駿河湾富士遠望図」 1799(寛政11)年 |
江漢は江戸で活躍した洋風画家。天明3(1783)年には日本最初の銅版画制作に成功、また油絵も手がけるなど多数の洋風画を制作。特に日本風景を題材にした油絵に力量を示した。本作は駿州矢部の補陀落山(現在の清水市・鉄舟寺)より望んだ景観を絹地に描いた油絵。同地からの富士を江漢は好み、多くの類作を残したが、本作は人物などの細かな描写も見え、充実した出来ばえを示している。日本における初期油絵の作例として貴重である。洋画家・須田国太郎旧蔵作品。 |