ヘッダー(ロダン)
ロダン 鑑賞の手引き
AUGUSTE RODIN Guide book

 

ロダンと日本
HANAKO

 

 20世紀初めから第一次世界大戦前後までヨーロッパで活躍した日本の女優花子。晩年のロダンのモデルを務めた、唯一の日本人である。
 本名を太田ひさといい、1868(明治元)年愛知県に生まれた。幼い頃から踊りや三味線を習っていた花子は、コペンハーゲンの博覧会に踊り子として出演するため、1902(明治35)年単身渡欧し、その後も旅芝居の一座を組んでヨーロッパ中を巡業した。花子という名は、モダン・ダンスの旗手であり、興行師でもあったロイ・フラーによって命名された芸名である。1906年にマルセイユの植民地博覧会で公演していた花子は、ロダンと運命的な出会いをする。ロダンは、パリ公演の後マルセイユ入りしたカンボジア人ダンサーの一行をスケッチするために追ってきたのだった。花子が演じていた役柄は、主に腹切りや仇討ちなどの日本的なモティーフを盛り込んだもので、ロダンは花子の死の表情に魅了された。その後、花子は芝居興行の合間に、モデルとしてロダンのアトリエを訪れた。およそ5年間で制作された作品は、彫刻だけで58点に及ぶ。これは、一人のモデルを対象にした数では最大である。

《花子のマスク》


《手に扇子をもち、ひざまずく花子》
1910年頃 ロダン美術館

 《花子のマスク》は、東洋的な顔立ちの上に刻印された苦痛を克明なまでに表現している。ロダンの伝記作者は、西洋人と異なる激怒の表情を花子が驚くほど長く保てたことを伝えている。またロダンは、花子の美の特質がその肉体の強さにあることを語った。一方、死に臨んだ苦悶の表情とは別に、放心したような平穏な花子の顔も、ロダンは作品に捉えた。それは、虚空を睨んだ激烈な顔を保つことに疲れた花子が、制作の途中に見せた表情であり、これら異なるふたつのタイプをロダンは交互に制作したと、花子自身が伝えている。
 花子は、1921(大正10)年、2点の彫刻作品を携えて帰国した。それは、自分をモデルにした作品を譲ってほしいという依頼が叶わぬままロダンが亡くなった後、フランス政府に懸命に働きかけた結果だった。これら2点の作品は、現在は新潟市美術館が所有している。


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