ヘッダー(ロダン)
ロダン 鑑賞の手引き
AUGUSTE RODIN Guide book

もっとロダンを知るためのキーワード 3

Key word L-P

L:手紙 lettre

 パリのロダン美術館の文書庫には、ロダンに関する多くのドキュメント(文字資料)が収蔵されている。その中でも最大のものは、生前にロダンがやり取りした手紙だろう。宛先は、妻や姉などの家族や友人から、作品を注文するコレクターや美術館にまで及び、ロダンの人柄や社会的態度といった個人的な側面から、制作の概念などに関する芸術家としての姿勢をも示す、貴重な情報源となっている。全4巻の書簡集がロダン美術館から出版されており、年代順に、受取人に届いた手紙のみならず草稿やメモを加えた1,200通余りの手紙がまとめられている。


M:モデル modèle

 ロダンのほとんどの作品は、人体が主題である。従って、モデルなしで制作することは不可能だった。画家や彫刻家のアトリエでは、職業的な訓練を受けたモデルが、芸術家の注文どおりのポーズを取ることが通例だったが、ロダンの場合は異なっていた。作品の主題によっては、特定のポーズを要請することもあったが、ロダンはアトリエでモデルを自由に歩き廻らせ、その動きやくつろいだ瞬間を観察することによって、彫刻やデッサンにおける身振りのレパートリーを増やしたのである。ロダンにとっては、それこそが自然であり、イマジネーションの源となった。


N:ニジンスキー Vatslav NIJINSKY(1889-1950年)

 ニジンスキーは、20世紀初めに主にパリで活躍した、ロシアのバレエ・ダンサー、振付家である。セルジュ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスの花形で、並外れた跳躍力と優雅な気品とで、一世を風靡した。ニジンスキーが台本・振付・主演を担当し、1912年に初演された「牧神の午後」は、主題のみならず振付の面においても、その挑戦的な内容のために物議をかもした。以前からバレエ・リュスを支持していたロダンは、新聞紙上でニジンスキーを賞賛する文章を掲載した。ロダンの彫刻作品には、ニジンスキーをモデルにしたと思われる全身像と頭部がある。制作の詳細なプロセスについては知られていないが、細部の省略、そして運動とエネルギーを感じさせる効果は、その後の抽象彫刻を先取りしている。


オーギュスト・ロダン《ニジンスキー》
1912年 ロダン美術館

O:東洋 Orient

 日本以外の東洋世界も、熟年を過ぎたロダンに新たな刺激をもたらした。それは、アジア諸国由来の美術作品の収集と、東洋からやって来たダンサーとの出会いによるものである。
 1889年のパリ万国博覧会ではジャワのダンサーの、1906年のマルセイユ植民地博覧会ではカンボジアのダンサーのパフォーマンスと出会ったことによって、多くの素描や水彩画が生まれた。特に、後者を描いた作品は、晩年のロダン作品の中でも秀逸である。モデルの動きを捉えるために、彼女たちから視線を離すことなく、従って紙に目をやらずに描かれた一連の作品は、躍動感と即興性に満ちた近代的なデッサンの幕開けとなった。
 1913年には、『アルス・アジアティカ』誌から、マドラス博物館の彫刻についての解説を依頼され、「シヴァのダンス」を執筆した。


オーギュスト・ロダン
《正面向きカンボジアの踊り子》
1906年 ロダン美術館

P:写真 photographie

 ロダンが生まれたのは1840年。おりしもダゲールによって写真術(ダゲレオタイプ)が発表された翌年のことだった。はじめロダンは写真の芸術性を否定していたが、1896年にジュネーブのラト美術館の展覧会で彫刻作品を写した写真と彫刻とが同時に展示されてから、写真の有効な利用方法に気づいた。すなわち、第一に広告の媒体として、第二に展示作品を容易に増やす手段として写真を用いたのである。また、ジャック=エルネスト・ビュローズやエドワード・スタイケンなどの写真家と契約し、どの作品を撮影するか、撮影の角度や照明、背景の指示も行ったことから、第三にロダンが鑑賞者に望んだ作品の見方が写真から分かる。さらに制作途中の彫刻写真の中には、写真の上からロダンが直接ペン描きをしたものがある。ロダンにとって、写真は新しいアイディアを表現するための媒体の役割も果たしていた。


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