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研究ノート
《和田 英作「富士」について》


泰井 良

 暗闇の中から東の空が仄かに明らみ、暫くすると山頂は紅色に染まり、それを受けて反対側の山肌は一瞬の暗い影を呈するが、鮮やかな紅色は次第に裾に広がる。太陽が昇るにつれて、紅色は薄れ、富士はいつもの朝の色に変わる。早朝の僅かな時間にしか見られない見事な自然の光景である。和田英作《富士》(当館蔵表紙図版)は、そうした一瞬の光景を独自の感性をもって描き留めた作である。冬枯れの草木を配し茶褐色の大地に深紫色を混ぜ、全体を暗くおとした前景とは対照的に、富士は雄大かつ繊細に表され、堂々とした風貌を見せている。空は絵筆を画面にこすりつけていくように、細かく丁寧な筆致で描かれており、その澄明さは比肩するものがない。本作は、現在の山梨県富士吉田市から捉えた富士で、和田は同市にある刑部旅館を定宿としていた。宿から程遠い写生地に着くと、辺りは未だ真暗で、冬の寒さは例えようもなかったらしい。それでも、和田は弟子の刑部人に「僕は富士山を描くのが大好きでそれを描くことが何より嬉しかったから寒いことなど何とも思いませんでしたよ」(註1)と語り、富士を描くことに対する執着ぶりをみせている。彼が、これ程までに、富士に執着したのは、何故だろうか。

 古来より、富士は多くの画家たちによって描かれてきた。近代になると、画家たちは現場へ足を運んで実景描写を試み、五姓田義松、平木政次などのように西洋の遠近法を用いた作例がみられるようになる。しかし、こうした画家たちにとって、それ自体が完成された美を有する富士を描くことの難しさに加えて、何よりも西洋から伝来した油絵具を使いこなすこと、さらには日本の湿潤な風土に適った油彩画を制作するということは容易ではなかった。

 和田と富士との関わりは、彼が明治31 年、画業に行き詰まり、清水市にある朝陽館に投宿したことに始まる。ここで、彼は再び制作への意欲を取り戻し、清水付近の写生を行なっている。これが契機となり、その後も、和田は三保を訪れ、昭和26年にはこの地に住居と画室を建て、終生の居とした。和田が描いた富士の中で、最も古いものとして、彼が19 歳の時に制作した《七里ヶ浜》(図1)が現存する。七里ヶ浜から富士を望む図は、江戸後期の司馬江漢を想起させるとともに、この構図は浮世絵にも採用され、名所絵としてもよく知られている。和田は、こうした伝統を意識して描いたと思われるが、現場での写生を行い、対象を目の前にした際の新鮮な感覚を直接に表現している。そのため、全体に筆致は粗く、スケッチの域を脱していない。明治32年以降になると、《富士》(明治32 年 府中市美術館蔵)、《富士》(明治42 年三重県立美術館蔵)のように、人里離れた長閑な村落や街道とともに富士が描かれるようになる。これらをみると、和田が「名所絵としての富士」ではなく、「あるがままの風景」を描こうとしたことが判る。その後、和田の描く富士は、清水市三保及び山梨県富士吉田付近から捉えたものに類型化していく。題材を富士に限定し、構図を類型化して描けば、マンネリズムの謗りを免れ得ないことにもなる。実際、彼の一連の「富士」を含めた画業後半に属する作品群を評価しないという見方もある。しかし、和田はこうした批判に対して、反論の意味を込めて次のように語っている。「富士を描いて主観を表すなどと云う大それた気はなく、富士そのものをその壗に描けたらすでに仕合わせなのです」(註2)。この「富士そのものをその壗に描く」ということは、決して容易いことではなく、自然との対峙が必要となる。現場写生をなおざりにし、簡単なスケッチをする程度にとどめ、画室で制作すれば、画家が観念的に作り上げたイメージの世界となってしまう。また、そうでなくとも、画室での制作を重視すれば、自然の持つ存在感を直接に表現することはできない。そうなれば、これまでにも制作されてきた名所絵的な富士図と何ら差異のないものになってしまうだろう。そこで、和田は富士の制作に際して、現場での制作を何よりも徹底した。彼が清水市三保に転居して直後の作画活動をみると、富士を描いた日数は一年の内の128日にも及ぶ。彼は毎日、同じ時間、同じ場所にイーゼルを立て、刻々と変化する富士を捉え続けた。そのため、和田の描く富士は他のどの画家が描く富士とも異なる個性的なものであり、また、絶えず富士が表情を変えるように、彼の描く富士には同じものは一つも存在しない。

 大正から昭和期にかけては、芸術家の個性、内面性が重視された。画家の内的イメージをもとに構想された作品には、その個性が宿り易いが、それが必ずしも作品そのものの個性や独自性に繋がるとは限らず、表層的なレベルにとどまることが多々ある。一方、自然から直接に得られるリアリティーを備えた作品には、別の意味での個性がある。それを手に入れるため、和田は不断の努力を続けた。底冷えのする早朝、空気は澄んで、富士は一層壮麗にみえる。そんな日、和田はイーゼルをかかえ、小品であれば数日、大作となると数週間も現場での制作を続けた。こうした不断の努力があってはじめて「富士そのものをその壗に描く」ことができるのである。また、彼にはそれを支えるだけの卓越した技巧があった。何よりも、優れた色彩感覚である。変化する自然の光景を的確かつ鮮やかな色彩で捉え、画面を構成する技巧、これを彼はバルビゾン派の画家たちから模写等を通じて学んだと考えられるが、ここでの詳述は避けておく(註3)。

 ここで再び、当館蔵《富士》をみることとする。本作は、山頂や前景の道など明部には絵具を重ねているが、画面は全体にキャンヴァス地が露呈する程、薄塗りで殆ど地塗りを施していない。絶筆となった《風景》(図2)をみても、薄く地塗りを施し、簡潔な鉛筆素描をした後、明るい絵具をキャンヴァスに定着させている。平木政次《富士》のように、しっかりとした地塗りを施した後、薄く色を塗り重ねていく伝統的技法とは異なる。視覚が対象を捉えると同時に、絵筆が視覚と連動するかのように画面に独自の色と形を与える。とりわけ、前景の褐色調の大地は、眼に映る光景を直接描き出しており、そのため距離感が不明瞭に感じられ、清澄に描かれた富士との不均衡を感じるが、ここにこそ和田の現場制作によって感得された深遠なリアリズムがある。このように、和田は現場制作を徹底し、そこから得られる感興を画面に描き出したが、彼の描く風景は、単なるスケッチではない。厳寒の空と冬枯れの大地に雄々しく聳える富士を描き出した絵画としての完成度を備えた作である。換言すれば、本作は現場で受け取った最初の率直な感興、情趣を保ちながら仕上げた画であるといえる。和田は様々な富士を描いたが、こうした観点から筆者は画業中期にあたる早暁の富士が最も充実した作例であると考える。黒田も晩年に風景画の小品を多く手掛けたが、これらは彼の感性が率直に表されている点では興味深いものの、完成度として高いとは言い難い。それに対して、和田が描く富士をはじめとする風景は、日本の風景がもつ豊かな情趣を描き出しており、しかも作品としての完成度も高い。それゆえ、一連の「富士」は、日本洋画における自然主義的リアリズムの確立を目指し、「今は無き日本の古き良き風景」を描き留めたものとして、これからも観者を惹きつけるに違いない。

 自然のもつ力強い存在感、それを捉えんがために画家は現場へ足を運びスケッチをする。それによって得られたリアリティーと画としての完成度との関係、この微妙な均衡によって作品は成立するが、そこにこそ画家の個性と感性が現れる。和田の描く富士を見るとき、その微妙な均衡に支えられた日本のリアリズム絵画の成果を感じずにはいられない。

(当館主任学芸員)


(註)
刑部人「和田英作先生と富士」『日本美術』63 号1970 年1 月p.30
「和田英作氏美術漫談」『アトリエ』第11 巻3 号 昭和9 年3 月
拙稿「和田英作『欧州日記』について」『静岡県立美術館紀要』14 号 平成10 年
 
(図1 )《七里ヶ浜》明治26 年
鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵
(図2 )《風景(絶筆)》 昭和33 年 個人蔵

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