ヘッダー1

 



研究ノート
風景と造形芸術
−「サウンドスケープ」を導きとして−

村上 敬


 当館の作品収集方針のひとつに、「17世紀以降の東西の美術を『風景』表現に基づいて比較考察すること」※1がある。本稿では、造形芸術における風景表現を再考するための道具として、「サウンドスケープ」という概念を紹介する。そして、風景表現を再考するうえでのこの思想の長所と短所を考察し、そこから導かれる風景観がどのように造形芸術にかかわりうるのかを論じる。

 サウンドスケープ(Soundscape)とは、1960年代末、カナダの作曲家で音楽学者のマリー・シェーファー(R.Murray Schafer/1933-)が提起した概念である。これは、「sound(音)」と、「−scape(”眺め”あるいは”〜景”をあらわす接尾語)」を組み合わせた造語であり、端的に「音の環境」と定義されている。※2

 シェーファーはこの概念を用い、波や風などの自然現象に伴う音、鳥や動物および人間の声、機械などの人工物の音、一般的な意味での音楽など、われわれを取り巻くあらゆる音(より正確にはそれらが作り出す聴覚的環境)を研究の対象とした。具体的には、フィールドワークの手法を用い、単位時間中に聴かれたあらゆる音を記録することにより、その地域の音の環境を調査し、その場所の環境特性やその時間的な変化、それが人間にもたらす作用等を考察するというものである。

 一例として、フランスの漁村レスコニルにおけるサウンドスケープの事例※3を簡単に紹介する。この土地は、1日をかけて変化する海風−陸風の周期に常にさらされている。住民は昔から、風に共鳴するブイを海に浮かべ、その音の変化を聴き分けることにより、刻々と変化する気象状況を的確に読み取ってきた。この技術を身につけた成員により、秩序的に維持されているのがレスコニルの共同体なのである。シェーファーは調査によりこの場所の音環境を記録し、ある地縁的集団が聴覚的環境によってひとつの共同体としてまとまっている状況を確認することができた。さらに分析をすすめることにより、音を媒介とするこのような空間的結合がどのような地政学的要因によってもたらされ、どのような意義を持つかを探求することもできるのである。これは、音楽学の研究対象をより広いものにしたということを意味するだけではなく、もっばら「時間芸術」として語られることが多かった音楽の考察に空間的な要素をもたらしたことをも意味する。

 実のところ、シェーファーがサウンドスケープ概念をもって聴覚的環境という要素を音楽学研究の対象に取り込んだのは、まさに当の聴覚的環境の悪化が直接的な原因である※4。シェーファーは言う。「騒音公害は今や世界的な問題である。どうやらわれわれの時代に至って世界のサウンドスケープは劣悪の極みに達したようだ。多くの専門家が既に、この問題に直ちに手を打たなければ最終的には世界中の人間の耳がおかしくなると予告している」※5と。サウンドスケープという概念には、音に携わる人間の、聴覚的環境の悪化に対するリアクションという側面がある。

 もちろん、サウンドスケープの芸術学的側面も重要である。すなわち、ジョン・ケージ(John Cage/1912−1992)らによって拡張されてきた音楽概念を学問的にもフォローすること。このこともシェーファーは意識していた。彼は著書のなかで、ケージの「音楽は音である。コンサートホールの中と外とを問わず、われわれを取り巻く音である。ソローを見よ。」との言葉を引いて、音楽の定義が拡張されている状況を紹介している※6

 さて、シェーファーをサウンドスケープヘと導いた状況をたどってみると、この概念が、今、美術館で(すなわち造形芸術の範疇において)風景表現を考える上でもある種の有効性を持っていることがわかる。

 われわれをとりまく視覚的環境は非常に問題の多いものである。身の回りに、歩いているだけで気分が良くなるような美しい街並みがあるといえる人はどれほどいるだろうか。そしてまた、芸術学的視点にたてば、20世紀後半において、造形芸術の定義も、音楽の定義と同様に拡張されてきたことをもわれわれは知っているのであった。ここにおいて、「音楽/音の環境/サウンドスケープ」の関係と類比的なものとして「造形芸術/風景/ランドスケープ」の関係を考えてみることに意義を見出すことができる。

 風景(Landscape)は、あまりに一般的なことばであり過ぎたがために、手あかにまみれてしまった。いまさら他のことばで言い換えることも難しい。造形芸術における風景表現を考えるためにわざわざ音楽学の概念を借りてくる意味はそこにある。今まで「何もない場所」に過ぎなかったところに「風景」を初めて認めた感覚※7を呼び覚ます触媒として、「サウンドスケープ」といういかにも造語的な語感をもつことばは非常に有効であろう。うまくいけば、われわれはあの風景画のクリシェ※8から逃れ、みずみずしい目でみずからをとりまく風景を見直すことができるかもしれない。そして、そのような視点をわれわれにもたらすような作品群をひとつの風景表現として考察してゆくことはできないだろうか。

 われわれは、慣れ親しんだ「風景/ランドスケープ」ということばに、あらたに「サウンドスケープ」的含意を担わせることを主張してきた。しかしここでわれわれは、サウンドスケープを援用した風景の考察が潔癖症的な環境保全運動に陥ってしまうことへの懸念を表しておきたい。ともすればそれは、独善や退行に結びつき、今まさにわれわれを取り巻いている風景を引き受け、それとかかわってゆく能力を衰えさせてしまうことにつながる※9。人が種として存続していくために著しい負担を強いる公害問題などの領域に対して、エコロジカルな思想や運動は有効であろう。しかし、ある種の建造物や文化的営為を、美的に評価するのは容易なことではない。「昔は良かった」式の懐古主義が常に的を射ているかどうかは、判断が難しいのである※10。もちろん、逆に、いわゆる進歩主義的な造形思想も多くの挫折を経ているということは、公平に指摘しておかねばならない※11

 カナダでサウンドスケープ概念が提示された1960年代末に、英米では、アースワークス(Earthworks)あるいはランドアート(Land Art)と呼ばれる美術運動が起こった。広大な土地を掘ったり刻んだりするその作品群は、モダニスムヘの反発として位置付けられた。さらに、20世紀末の美術において、「インスタレーション」と呼ばれる様式が、まさに「時代様式」とみなされうるほどに流行したことも記億にあたらしい。これは、アースワークスほどの規模を持たないとはいえ、作品を取り巻く場所の特性を内包した作品概念である。これら、場所の特性に依拠した作品群は、われわれの風景観を表明する造形芸術のあり方として、あらためて検討する価値がある。

 しかしながら、最近になって、場所の特性をあえて意識しない、むしろ場所の特性を放棄した「フラット」なデザインのあり方が建築やデザインの分野で見受けられるようになってきた※12。それは多くの場合清潔で魅力的な触感を持ち、端的に美しい。コンピューターネットワークの整備により、世界のどこにも「特別な場所」などなくなりつつあるのではないかと感じている、われわれの日常感覚にも類縁性がある。

 やがてわれわれも、(ラジオに郷愁の念を抱くようになった現代人のように)このような感覚のうらに、懐かしさにも似た感情を移入できるようになるのかもしれない。しかし、現段階においては、風景が場所の特殊性のもとに成立していることの証左となりうる作品※13を対象に研究をすすめたいと考えている。ともあれ、本稿においては、「サウンドスケープ」的な認識の方法で造形芸術を考えてゆくことで、われわれがあたらしい風景認識の地平へと導かれうるということを主張しておきたい。
(当館学芸員)

■参考文献(脚注で触れたもののみ。原著書発表順)
●マリー・シェーファー[著]、鳥越、小川、圧野、田中、若尾[訳]『世界の調律−サウンドスケープとは何か』、平凡社、1986(原著書/R.Murray Schafer, The Tuning of the World, Knopf, 1977.)。
※ただし現在原著は、The soundscape; our sonic environment and the tuning of the Worldという表題のもと、RochesterのDestiny Booksから出版されている。
●柄谷行人「風景の発見」(『旧本近代文学の起源』、講談社、1980。所収)
※なお、現在は講談社文芸文庫に収録されていて容易に入手可能。
●圀府寺司「近代美術史における「周縁」「精神性」「信仰」」(池上、神林、潮江[編]『芸術学フォーラム3 西洋の美術』、勁草書房、1992。所収)
●The American Heritage Dictionary of the Eng11sh Language. 3rd. Ed., Houghton Miff1in Company, 1992.
●『静岡県立美術館コレクション選』、静岡県立美術館、1992。
●松本誠一「風景画の成立−日本近代洋画の場合−」(『美学』178号、美学会、1994。所収)
●増田聡「書物を拾い、街を捨てよ」(田島、久野、納村[編]『部市/建築フィールドワークメソッド』、lNAX出版。2002。所収)
※1 静岡県立美術館1992、p.6
※2 シェーファー1986、p.399。この語の構成要素である「−scape」は、「Landscape」に由来する。本稿は、「風景」ということばをヒントにしで音楽学の領域を拡張した「サウンドスケープ」という概念を借用し、そこから風景と造形芸術を考えてみようという試みである。
※3 シェーファーI986、pp.307−308
※4 たとえばシェーファーは、ドイツの村ビッシンゲンにおいて、教会の鐘の可聴範囲が、今世紀初頭に比べて著しく狭くなってしまっていることを確認している(シェーファー1986、p.255)。
※5 シェーファー1986、p.21
※6 シエーフアー1986、p.23
※7 われわれの基本的な了解事項として、風景は「それを風景と敬なす意識」の中にしか存在しないことを確認したい。わが国の伝統的な文学作品には、風景を概念の「よりしろ」として活用し、享受するというスタイルがある。各地の「歌枕」などの風景がその典型としてあげられよう。しかしここでは、そのような意味ではなく、感覚的なレヴェルでの環境認識を風景と呼ぶ。
※8 日本においては、「風景」ということば自体はかなり古くから定着している。しかしながら、現在われわれが使用している意味で「風景」ということばが使われるようになるのは、明治20年代から30年代、「風景画」ということばが絵画のジャンルとして定着し始めるころと軌を一にしていると考えられる。この件については前注とともに、松本1994、柄谷1980などを参照。
 また、アメリカン・ヘリテイジ英雷辞興には、「Landscape」の文献初出は、1598年に美術用語として使われた時であること、そして、美術を離れた一般的な意昧での「風景」を示す用例はそれから34年後に初めて現れたことが記されている。
 ここでは、風景画というジャンル自体への好悪の表明ではなく、われわれの視覚を規定する前提的要素としての風景画のはたらきを言い表すために、あえてこのように「決り文句」「定式化されたもの」という意の表現を用いている。
※9 シェーファーのサウンドスケープ論に対しては、都市に背を向けた、目然の音環境への憧憬に基づくものなのではないかという指摘もなされている(増田2002)。
※10 たとえばシェーファーは、「ラジオによる現代生活の支配」(シェーファー1986、p.145)を、エミリー・カー、ヘルマン・ヘッセといった「知識人」たちのラジオヘの反発を紹介して論じている。一方、ハリウッドの映画監督ウディ・アレンは「ラジオ・デイズ」(Radio days. 1987)において、1940年代ニューヨークにおける家族の物語を、ラジオヘの甘い郷愁とともに描いた。また、現在パリのランドマークとなっているエッフェル塔が、建造当時、文学者らには著しく不評であったこともよく知られている。
※11 「インターナショナル・スタイル」と呼ばれるいわゆる機能主義建築の様式が、実は国際的でも普遍的でもなかったこと、そしてそのことが20世紀も末になって人々の意識に浮上してきたことなどが多くの論者により指摘されている(圀府寺1992など)。
※12 例えば、『美術手帖』誌の2000年9月の特集は「風景新次元 スーパーフラット・ランドスケープ」というものであった。
※13 これについては川俣正(彼の作品「袋井駅前プロジェクト 1988」の制作メモ、レリーフ、模型等を当館で所蔵している)らの作品を論じてみたいが、紙幅も尽きたため、またの機会を待ちたい。
■元の位置へ戻る■

<< back | Next>>


来館者の声 ボランティア活動 友の会について 関連リンク
カタログ通信販売 前売り券のご案内 美術館ニュース「アマリリス」より 年報
TOP MENU

ロゴマーク Copyright (c) 2003 Shizuoka Prefectural Museum of Art
禁無断転載・複写