2011年10月22日(土)から12月4日(日)まで、当館では「京都国立博物館名品展 京都千年の美の系譜―祈りと風景―」展が開催された。その後期展示の際、展示の最後を飾っていたのが《柳橋水車図屏風》(京都国立博物館所蔵:以下京博本)であった。本論考では、展覧会に際して作品を実見する機会を得た京博本を中心に、一連の「柳橋水車図屏風」についてまとめていきたいと思う。
「柳橋水車図屏風」は桃山時代後期から江戸時代初期の比較的限られた期間に、一定のパターンに則って描かれた作品で、現在所蔵者不明になっているものも含めて22作品が報告されている1。「柳橋水車図屏風」で良く知られている作例としては、長谷川等伯の印が捺されている香雪美術館所蔵のもの(以下香雪本)や、長谷川等伯の息子である宗宅等後の印が捺されている群馬県立近代美術館(戸方庵井上コレクション)所蔵のもの(以下群馬県近美本)、印のない作例としては東京国立博物館所蔵のもの(以下東博本)などが挙げられる。
まず、京博本の図様を細かく見ていこう。
画面の中央には、一双にまたがるように金の橋が架けられている。この橋は金箔が貼られているが、橋板の部分と欄干・橋桁の部分とで、金の色味を異ならせている。また、京博本では橋板は均一に金箔が貼られているが、香雪本のように胡粉の盛り上げによって橋板の丸みを表現している作例も存在する。
柳の木は3株描かれており、右隻右端に1株、右隻左端と左隻右端とにまたがる1株、左隻左端に1株が描かれている。右隻右端の柳と右隻と左隻にまたがる柳は、どちらも春の新芽が描かれているが、左隻左端のものは夏の生い茂る葉になっており、右隻から左隻へ、季節が春から夏に移行していることがわかる。また、左隻左端の柳の葉は、葉脈を金泥で表しており、画面を装飾していく意識の高さを感じさせる2。柳の幹は、くねくねと湾曲した形態が特徴的だが、ハイライトに金泥を使用し、月の光を受けている様子が描かれる。また、緑青で苔も描かれている。
水車は左隻左端に描かれているが、その周囲には蛇籠(籠に石を詰めて護岸などに使用する)も3つ描きこまれる3。また蛇籠は右隻左下にも描きこまれる。水車も蛇籠も、胡粉で盛り上げた上に金を施しており、鑑賞者に工芸的な印象を与える。水車を支える杭や蛇籠の周りの杭にも金箔が使われており4、ほとんど金の土坡と一体化しているようにさえ見える。
川の流れは銀泥で描かれており、なまこ型の青海波風の波で表され、水車や蛇籠の周りには波涛が表現される。現在は酸化して黒くなってしまっているが、制作された当初は銀の輝きにより、一層華々しい画面であったと考えられる。「柳橋水車図屏風」において波の表現は画家の個性が表れやすい部分である。京博本では、比較的長めのストロークで波が描かれており、また、線のブレが多少見受けられる。例えば群馬県近美本では、波は繊細な筆遣いで描かれているが、これは筆者の長谷川宗宅の他の作品が持つ繊細さと通じ合う。群馬県近美本と比較すると、京博本はよりおおらかな筆遣いで描かれており、画家の個性の差を看取することができる。
右隻三扇目には金属板で作られた下弦の月が打ち付けられている5。また、金箔押しの霞や、不整形の金箔をむらむらに貼った金雲も見られる。京博本に特徴的なのは、数センチメートル四方の大きさの小さな金箔をタイルのように敷き詰めた金雲や霞が見られることである。このような金箔の使い方は、あまり他の柳橋水車図では目にしない方法である。また、金雲の周りには墨によるドットが施されており、遠目には輪郭線のように見えるが、おそらくこれは後補によるものであろう。
ここまで京博本の図様を細かく確認していくことで、柳橋水車図屏風に描かれるモチーフを整理してきた。ところで、「柳橋水車図屏風」に描かれているのは現実の土地であろうか。それとも想像の土地、理想の風景であろうか。
柳橋水車図屏風は宇治を描いた作品であるということに、異論を唱える人はいないであろう。柳と橋を一緒に描くことから宇治の橋姫伝承との関連が指摘されていたり6、水車というモチーフに、宇治=憂しの地としての無常感を重ね合わせているという指摘がなされていたりする7。また、中央に金色の橋を大きく配することから、浄土教絵画との関連も指摘されている8。中世、宇治の地への訪問は、浄土を希求するという意味が強かったのに対し、「柳橋水車図屏風」が数多く制作された近世初期の宇治は、新たに茶摘みという目的で訪ねられるようになる9。宇治に付随する意味づけが変化していく中で、中世の宇治に対するあこがれや復古的な気持ちも込めて制作されたのが一連の「柳橋水車図屏風」なのではないだろうか。制作時期と同時代の宇治そのままの姿を描くのではなく、理想の宇治の姿を投影して描いている所に、現代の我々にも伝わってくる抒情性があるのではないだろうか。
《柳橋水車図屏風》 京都国立博物館蔵
ところで、一連の「柳橋水車図屏風」の制作時期に関して、狩野内膳《豊国祭礼図屏風》(豊国社蔵)の画中画に柳橋水車図屏風が描かれていることは以前から指摘されているところである10。《豊国祭礼図屏風》は、慶長九年(1604)の豊臣秀吉の七回忌の際の豊国社臨時祭礼を描いており、慶長十一年豊国社に寄進されたことが分かっている作品である。このことから、慶長年間半ば以前に、定型の「柳橋水車図屏風」が制作されており、流行していたということがわかる。これは、香雪本に長谷川等伯(1539~1610)の使用印が捺されていることと矛盾しない11。京博本の制作時期に関して、京博本は落款印章を伴わない上に、補筆や補修で損なわれている部分があり判断が難しい。作品の細かな描写力を他の「柳橋水車図屏風」と比較すると、おおらかな筆遣いや、柳の幹が画面の外へ向かっていくエネルギーを内包しているように感じられる点に桃山時代らしさがある。一連の「柳橋水車図屏風」の中でも、比較的古い時代の制作になるものではないだろうか。
柳橋水車図屏風に関しては、多角的な視点からさまざまな論考がなされている。宇治との関連や図様のルーツに関しては定説がある中で、長谷川派だけでなく他派との関わりも含めて、近世初期の絵画の中で「柳橋水車図屏風」をどのように位置づけていくのかを考察していく必要があるだろう。今後の研究課題としたい。
(おおはらゆかこ 当館臨時技術員)