アマリリス Amaryllis

2008年度 冬 No.92

研究ノート
1825-1828 年のコロー オレヴァーノ風景をめぐる一つのメモ
小針 由紀隆


コロー 《オレヴァーノ、村と岩山》
テキサス、キンベル美術館

ローマとその周辺
ローマとその周辺

「......イタリアでは自然がとても美しく、とてもピトレスクなので、諸君は風景とそこにみられる建築など、様々なものを研究するために、イタリア滞在をうまく利用しなくてはなりません。自然を鉛筆で描くことに止まるべきではないのです。諸君は色彩の効果を得るために、いつもパステルを携帯するべきです。色彩と光の効果は、画家が学びうる最も重要で、最大限に活用しうるものなのです。…」

ここに引用したのは、パリの王立絵画彫刻アカデミーで秘書と史料編纂官をつとめたシャルル=ニコラ・コシャン(1715-1790)が、1774年頃、ローマのフランス・アカデミーにいたある画学生に宛てた手紙の一節である。コシャンがこの助言で勧めているのは、ピトレスク、つまりピクチャレスクな風景の研究と、色彩と光の効果の活用である。彼によれば、画家はどんなに辛くても、自然それ自体から学ぶのがよく、自然からの教えは過去の巨匠の作品よりも信頼に足るものであった。色彩と光の効果を表すには、彩色できる画材を用いる必要があり、そうせずして風景を研究することはできなかったのだ。

ではコシャンのこうした助言を、ローマとその近郊でもっとも体現できた画家は、いったい誰だったのだろうか。作品の質の高さを含めて考えるならば、ジャン=バティスト=カミーユ・コロー(1796-1875)をしのぐ画家はいなかったように思われる。26歳で画家となることを許されたコローは、1825年から1828年まで最初のイタリア滞在をはたす。その間ローマとその周辺、チヴィタ・カステッラーナ、パピーニョ、ナルニなどを旅し、ナポリやヴェネツィアにも足をのばしている。1834年に再訪した際は、フィレンツェやヴォルテッラなど中部イタリアから北を歩いている。そして1843年に、最後にして三度目のイタリア周遊を試み、15年ぶりにローマを訪れている。三度にわたるイタリア滞在を通して、コローは先のコシャンの助言に従うかのように、訪ね歩いた各地の自然の眺めを、紙に油彩で描写しつづけた。当時のフランス人たちは、油彩の風景習作はイタリアで描かれるものと考えていたのだ。

コローのイタリア滞在中の芸術活動を概観すると、彼が実際に歩いた土地から一つのトピックを拾い上げることができる。1827年、コローはティヴォリの東側に歩をすすめ、オレヴァーノとその周辺の風景を描いている。テキサスにある《オレヴァーノ、村と岩山》は、そういった作品の一つである。ローマ・カンパーニャの地形の特質を理解しつつあったコローは、キュービックな民家の前方になだらかな斜面を探し出し、全体を穏やかな色調でまとめあげている。彼が風景習作のために選んだモティーフには、自然の力で形づくられた地形と人間のつくりだした幾何学的な建築物からなる風景がかなりあった。描かれることを自然のなかで待ちつづけるローマ・カンパーニャの風景を、コローは一つひとつ目敏く見つけ出し、絵筆で賞賛した。

フランス人のコローがオレヴァーノを描くにいたった経緯には、ドイツ人との交流があったのではないかと推察される。1786年から1788年にかけて、ゲーテは念願のイタリア旅行をはたす。ローマ内外を丹念に訪ね歩き、ティヴォリ、フラスカーティ、アルバーノ、カステル・ガンドルフォ、ヴェッレトリなどに足をのばしている。そして、古代美術にも傾倒していたゲーテは、当然のこととして、ローマから南のナポリやシチリア島にも向かっている。しかし、人一倍探究心の旺盛なこの自然観察者は、なぜティヴォリの東に足を踏み入れなかったのだろうか。19世紀の油彩習作に描き出されたズビアーコ、オレヴァーノ、チヴィテッラには、どうして関心を示さなかったのだろうか。この問いを解く鍵は、ゲーテのイタリア滞在が1780年代だったことにあるように思われる。18世紀にローマで活動した画家のヴェルネやヴァランシエンヌも、ティヴォリから東の風景を描いていなかったのだ。

1780年頃ローマにいた画家たちが遠出する場合、次の三つのルートにたよっていた。第一はフラミニア街道もしくはカッシア街道を利用する北への旅路。第二はアッピア街道を南にたどるナポリ方面への旅路。そして第三はティブルティーナ街道を東にすすむティヴォリ方面への旅路である。ティブルティーナ街道に近いズビアーコ、オレヴァーノ、チヴィテッラは、それぞれながい歴史をもっていたとはいえ、ゲーテがイタリアにいた頃には、まだ芸術家によって十分開拓されていなかった。1800年以前のオレヴァーノは、視覚美術の歴史に何ら貢献していなかった、この片田舎はローマにきていたドイツ人画家たちから特別に意識されるようになるが、それはおそらく、ヨーゼフ・アントーン・コッホが、オレヴァーノと近隣の風景をスケッチした1803年頃からだろう。

オレヴァーノとその周辺が次第に知られるようになると、この土地固有のいくつかの特徴が旅行案内書に紹介されるようになる。急斜面に形成されたオレヴァーノの集落、その北側にある山頂の村チヴィテッラ、その間にそびえるラ・セルペンターラと呼ばれる古いオークの群木、そしてチヴィテッラから見渡せる山々の眺めは、ティヴォリとは異なる新しいピクチャレスクな光景として、1820年代までに若い画家たちを惹きつけていた。さらに、この地域で注目されるのは、1780年代に建てられた宿が利用できるようになったことである。カーサ・バルディと名付けられたこの賃貸施設の誕生は、モティーフを求めて旅をする風景画家たちから、宿と食事の心配を取り除くことになった。

P.ガラシ(Corot in Italy , 1991, p.123)が言うように、カーサ・バルディは「城壁外のカフェ・グレコ」であった。カフェ・グレコはローマ市内のスペイン階段の傍にある有名なカフェだが、そこはゲーテ、ショーペンハウアー、トルヴァルセン、メンデルスゾ−ン、アンデルセン等々、ドイツや北欧からやってきた芸術家や文人たちで賑わっていた。画家たちが遠出する際、待ち合わせ場所に使ったり、絵画の売買について話し合う場所ともなっていた。コローがここに出入りしていたことは確かで、時には郵便物をこのカフェで受け取ることもあったようだ。コローはここをたまり場とするドイツ人たちから、ティヴォリの東側に関する情報を得ることができたであろう。——コローの最初のイタリア滞在期を考える際、フランス人との親交がもっとも重要なファクターとなってくるが、しかし、ドイツ人との関わりも見過ごせない問題を含んでいるように思われる。
(こはり ゆきたか 当館学芸部長)

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