展覧会2010年 企画展

トリノ・エジプト展 −イタリアが愛した美の遺産−


トリノ・エジプト展に関するご質問

第2章「彫像ギャラリー」に関するご質問

6月13日(日)
29番《アメン神とツタンカーメン王の像》の、向かって左側面に、「1818….」とあります。これは何ですか?

入手された年代か、当初の持ち主の手に渡った年代を意味しています。
この作品はベルナルディーノ・ドロヴェッティという人物が代理人を通じて、エジプトのテーベで入手したものでした。作品を輸送する際、他の持ち主のものと混同しないよう、持ち主や代理人の名前、年代等を彫り付けたものです。代理人の名は「Rifaud(リフォ)」、発掘地が「Thèbes(テーベ)」、持ち主ドロヴェッティの名は「D-」で表わされています。

6月17(木)
37番《牡羊の頭》の右後ろについている、"MB"という文字は何ですか?

はっきりしたことは分かりませんが、元々の持ち主のイニシャル(頭文字)かもしれません。この像を元々の遺跡から動かして船に乗せた時、他の持ち主のものと間違えないように、目印を彫り込んだのかもしれません。同じような目的で掘られた目印が、29番《アメン神とツタンカーメン王の像》の、向かって左側面にもあります。
また、古い時代に付けられてしまった、落書きである可能性もあります。

6月23日(水)
キャプションにある「ラメセスIII世」と「ラムセスIII世」は同一人物ですか?

同一人物です。第20王朝の王様の一人です。

6月30日(水)
32番《ライオン頭のセクメト女神座像》が左手に持っているのは何ですか?

「アンク」という、生命の象徴です。29番《アメン神とツタンカーメン王の像》のア メン神も、同じものを持っています。

6月30日(水)
31番《ライオン頭のセクメト女神立像》が左手に持っているのは何ですか?

パピルスという植物を表した杖です。女神に特有なものだと考えられています。

7月19日(月)
31番《ライオン頭のセクメト女神立像》、女神すなわち神様なのに、どうして左足を踏み出しているの?

「セクメトの左足」に関しては、あれにあまり特別な意味はないようです。彫像としてバランスを取るためにどちらかの足を前に出しているのだと考えられています。
確かに「左足を前に出すのが敬意を示している」と言われますが、右足を出している像もあるため、決まりとしてではなく模倣した像が左足を出していたのでしょう。

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第3章「祈りの軌跡」に関するご質問

6月24日(木)
《死者の書》の材質はパピルスですが、裂けたり折れたり、乾燥などで割れてしまったりしそうなのですが、発掘された際には、どういう形状で保管されていたのでしょうか?

パピルスに書かれた死者の書は、巻物です。棺に入ったミイラの上に置かれてい たり、オシリス神像の台座の中に納めてあるようです。

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第4章「死者の旅立ち」に関するご質問

6月13日(日)
木棺はどんな木材で出来ているの?

木棺に使われている木材は、レバノン杉、シカモア、アカシアなど様々です。その中でも輸入材であるレバノン杉は、大変貴重なものでした。

6月14(月)
71番《タバクエンコンスの人型棺》だけ、妙にテカテカしています。これは元々こうなのですか?それとも現代になってから、ニスでもかけたのでしょうか?

現代にニスなどの保護剤を塗布しているかどうかは、科学的な分析を行わなければ確かなことはわかりませんが、おそらくしていないと思われます。なぜなら新王国時代以降の木棺には磨きをかけられている物がよく見られるからです。
これは「磨き」が神聖なものだと考えられていたためだと言われています。

6月14(月)
77番《人型棺の顔》は女性?それとも男性?

77番の顔は男性か女性かはっきり断定はできません。根拠をお示しできず申し訳ないのですが、監修者の方の印象では男性なのではないかとのことです。

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第5章「再生への扉」に関するご質問

6月12日(土)
6室にある作品の、「ファイアンス」とは何ですか?

古代エジプトの焼き物(陶器)の一種です。青色の釉薬を使い、当時高価だったラピス・ラズリという顔料の色を真似てあります。他の色を使うこともありました。
出品番号111番《黄金の三日月と太陽円盤のある首飾り》にもファイアンスが用いられています。

7月27日(火)
101番《ホルエムヘブ墓の入口》で、死者の名が削られたと書いてありますが、どの部分ですか?

名前が削られているのは両脇柱の根元部分に認められます。向かって右側は鑿(のみ)跡が見えるので、はっきりと判ります。削られた部分にセメントが塗り込めてあるのは、近代になってからの補強です。石灰岩はもろいので、中には金属のボルトも入れてあります。
アーキトレーヴ(両脇の柱の上に載っている、横長の部分)の両端では、死者であるホルエムヘブが神々に捧げものをしている場面が表現されていますが、いずれも顔の部分が削られてしまっています。確証はありませんが、政治的に対立する個人、または集団の手によって行われたのではないかと思われます。
ある程度の権力を有する者しか規模の大きいお墓を造ることはできませんでしたし、そのような社会的地位にいる者たちにとって権力争いはよくあることだったのかもしれません。妙なところが現代社会と変わらないようです。このような背景を想像しながら展示品に当たると、さらに深く味わうことができるのではないかと思います。

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各章共通のご質問

6月12日(土)
幾つかの石像、ステラにおいて、その下部や背面が削られたような跡がうかがわれましたが、元々(遺跡発見時の状態)は、例えば壁面とか床面と一体化になっていたのでしょうか?それを削り剥ぎ取ってエジプトから搬出したのですか?

色々なケースがあります。
ご質問にあったように、ステラが壁面等建築と一体化していた場合もあります。これは1室のお墓の模型でもご覧いただくことが出来ます。ステラ単体で立っていた場合もあるようです。
石像の場合も同様です。元々石像は、大きな建築や記念碑の一部として作られるのも普通でした。ただ、単体で作られ、破損してしまった場合も多々あります。

6月12日(土)
像の顔の下に時々付いている、細長いのは何ですか?

付け髭です。古代エジプトで付け髭を着けるのは、王様か神様に限られており、ハトシェプスト女王も付け髭を着けたそうです。
王様ではない人物の棺に付け髭があるのは、死んでオシリス神になったから、という意味だそうです。

6月13日(日)
今回の展覧会の照明は、章ごとによって違っていました。
1、3〜4章は同じくらいの明るさを感じましたが、2、5章はどのくらいの明るさだったのでしょうか?とても暗く感じました。また、部屋の室温も教えて下さい。

ご指摘の通り、 1、3〜4章の照明は、概ね100〜120ルクス程度です。ただ、パピルス等光に弱い展示品に対しては、50〜70ルクス程度に抑えてあります。
2、5章では、暗い部分が、0〜10ルクス程度だと思います。強く照らしてある個所は2章で70〜100ルクス、5章で50〜70ルクス程度に絞ってあります。演出上部屋を暗くしてあるので、鑑賞上そして安全上問題ない程度に、作品の照度を確保し、床面の明かりを加えてあります。
全体に暗い照明ですが、各章のコントラストがあり、目が徐々に慣れてくるかと思います。
部屋の室温は概ね22〜25℃程度、湿度は55〜60%程度です。ミイラ周辺の温湿度変動が少なくなることを、目指しています。

6月14日(月)
木棺やパピルス等には、どんな絵具で色を着けたの?

使われている絵具の元になる顔料はほぼ、鉱物資源です。黒だけはススを使っていました。また樹脂なども使用されていましたが、これは色付けのためというよりも、光沢を出すためだと考えられています。
この顔料に、何らかの膠着剤(絵具をくっつけるための、糊のようなもの)を混ぜ、絵具として使います。

6月14日(月)
付け髭のデザインは、神様用、人間用等で違いはあったの?

付け髭に区別はなかったと思われます。「思われます」というのは、実際に出土している付け髭の例がないからなのです。
ですが彫像や木棺、石棺、壁画などを見ても特に違いはなく、むしろ神が付けている髭をつけることで、王が自らの王位を正当化していたので、同様のものを選択したと考えるのが妥当かと思います。

7月13日(火)
閃緑岩は日本にありますか?

日本でも産出します。外見的に多少異なりますが、同じ鉱物です。

7月13日(火)
彫刻に使った鉄製品はいつ頃から作られたの?エジプトで製鉄されたのですか?

エジプトに鉄製品を作る技術が伝わったのは、ラムセス2世の頃(紀元前 1279年頃〜紀元前1213年在位)です。ヒッタイト王国から伝わったようなのですが、盛んに製鉄が行なわれるようになるのは、ローマに支配されるようになった紀元前30年以降のことです。これ以前は、製品が貢物として入ってくるか、隕鉄を加工するかしていたようです。

7月17日(土)
今回の出品作品には、石製の作品が多いのは何故?

今日まで残っている古代エジプト美術の作品に石製のものが多いということが、理由の一つです。トリノ・エジプト博物館が石製作品のみを収集している、ということではありません。木製品やリネンなども一部出品してもらうことが出来ましたが、石に比べると弱いものが多く、輸送に耐えない場合は出品することが難しいのです。

7月17日(土)
展覧会に出ているような作品は、どうやって収集されたのですか?買ったんでしょうか、それとも不平等な条約などで、強引に持ち去られてしまったものなのでしょうか?

色々だと思います。古い収集品の場合、作品由来の詳細は判らなくなっている場合がほとんどです。18、19世紀の収集品は、まだ法整備等が不十分だったでしょうから、購入した場合でも、今日的な感覚から言えば強奪に近いものもあったでしょう。ナポレオンがエジプトから持ち去り、その後イギリスに没収されたロゼッタ・ストーンは、現在ではエジプトから返還要求が出されています。
そのような要求の生ずる余地の無い作品も、勿論多々あります。

7月19日(月)
古代エジプトでは、清潔のために毛を剃っていたと聞きましたが、かつらは何で作っていたのでしょうか?毛を剃って、毛で作ったかつらをかぶっていたら、意味がないような気がしますが……?

古代エジプトのかつらは人間の髪であったり、動物の毛で作っていました。
確かに清潔にするという意味で体毛を除去していましたが、私たち日本人が考える「清潔」というよりも「清浄」という方が当時の感覚に近いかと思います。英語でお示しするとその感覚がよりわかりやすくて、「cleanness」ではなくて「purification」ということなのです。
神殿など神聖な場所に出入りする人間(神官など)などは体毛を剃った後、神殿に附属する池で沐浴も行なっていたようです。
神官や祭祀に携わる王族等ではない一般人の場合、かつらを被っていたかもしれませんが、かつらも買う物ですから、比較的裕福な人物がファッションとして被っていたと思われます。

7月27日(火)
エジプトの人たちの平均寿命はどのくらい?

寿命に関しては、王などの社会的地位の高い人々しか文字資料から追うことはできませんので、ほとんどが遺体を形質人類学の専門家に鑑定してもらうことになります。その方たちの報告によると、やはり若くして亡くなった方々も多く、平均寿命は30〜40才くらいのようです。

8月8日(日)
描かれている絵は、なぜ全て横顔なのか?

古代エジプトの人々にとって、二次元のイメージはそのようなものだったから、としかいいようがないのです。彼らにとって、ヒエログリフのような絵文字にも、何かの場面を表わした絵画にも、どちらにも文章のような性格がある、とも言えます。絵画というものが、目に映るものをそのままに表わすもの、とは思っていなかったようなのです。文章なので、文字の定型がある程度決まっており、顔であれば横顔を描くのが定型だったわけです。
101番《ホルエムヘブ墓の入口》のアーキトレーヴ(両脇の柱の上に載っている、横長の部分)の両端に、死者であるホルエムヘブが神々に捧げものをしている場面が表現されています。これを一つの場面を描いたものだとみなすと、同じ人が同時に2個所にいることになってしまうのですが、全体が文章だと考えてみれば、同じ人が2回現れても不自然はないのです。
正面から顔を描いた作例も、ほんの稀にですが現存しています。

8月8日(日)
何故アイシャドーを着けるのか?

伝染病の予防になるから、というのも理由の一つだったようです。アイシャドーの原料に用いられた孔雀石(マラカイト)に虫除けの効果があるので、ハエ等を媒介にした虫が目に入るのを防ぐのに用いられたのです。もちろん、化粧という意味でも用いられました。

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