ロダン館作品紹介

ロダン館作品紹介

画像:フロアマップ

地獄の門 関連作品

画像:地獄の門

1 地獄の門

高さ6m20cm、重さは約7トン。見るからに大きく、どっしりとしたブロンズ製のこの門には、有名な≪考える人≫をはじめ200人以上もの人物の像がはめ込まれています。ロダンは1880年、フランス政府から新たに建設する装飾美術館の門を3年以内で作るように依頼されました。かねて心を寄せていたダンテの長編詩『神曲』の「地獄篇」などを参考に構想を練った結果、悩みや苦しみを抱えて生きる様々な人物を生々しく描くロダン独特の地獄の表現になっています。美術館の建設が中止になったため、ロダンは1917年に亡くなるまで手を加え続け、その間にいくつもの独立した作品にして発表しました。
ロダンの彫刻はいずれも12体しか鋳造できないようフランス政府によって決められています。
≪地獄の門≫の最初の作品は東京・上野の国立西洋美術館の庭に置かれ、6体目がこの静岡のロダン館の作品です。日本にはこの2体しかありません。静岡の作品の鋳造は1990年から約3年を費やして、パリ郊外にあるクーベルタン鋳造所で行われました。門を上下二つに分けた鋳造用の原型に従った二部鋳造に世界で初めて成功したのです。それまでは四つに分けるなど小さく分割した鋳造ばかりでした。また、万一大きな地震が発生した場合に倒れたり、壊れたりしないよう、表からは見えませんが門の後ろの部分に耐震用の骨組みを取り付けてあるのも特徴です。

画像:≪地獄の門≫第3試作

2 ≪地獄の門≫第3試作

ロダンは≪地獄の門≫の制作を依頼され、色々な構想を練りますが、この第3試作は全体像を構想した最終的な試作です。初めの段階では当時の多くの教会の門と同じように、左右5つずつ、あるいは4つずつの規則正しいパネル構成が考えられていました。しかしやがて、ロダン独自の流動感あふれる、混沌とした構図に変わっていきました。中央の十字架の上に≪考える人≫が坐り、むかって右の扉の下にはパオロとフランチェスカの≪接吻≫、死んだ子を悼む≪ウゴリーノ≫というダンテの『神曲』「地獄篇」から直接採用した2つの物語が描き出されています。また左右の柱にはミケランジェロの作品を偲ばせるカリアティードなどが表されています。
作品の左下にロダンの指の跡が刻まれていて、作家の模索する気持ちが伝わってくるようです。

画像:<影>のトルソ

3 <影>のトルソ

トルソというのは、樹の幹のことを意味するイタリア語で、彫刻の首や手足などの部分を意図的に取り除く手法をトルソ形式といいます。現代では一般的に見ることができますが、完成した作品として発表したのはロダンが最初と言われています。≪<影>のトルソ≫は≪地獄の門≫の一番上に立つ、≪三つの影≫と呼ばれる3人の男性像を元に作られました。この<影>の像を普通の背丈に拡大し、頭と手足を切断したものが≪<影>のトルソ≫です。右側の腰には接着した腕をはぎ取った跡があり、大きくえぐり取られた首の部分は、うつむいた頭の部分を切断したことを表しています。こうして躍動する肉体の動きがいっそう端的に示されるのです。

画像:パオロとフランチェスカ

4 パオロとフランチェスカ

この作品はダンテの『神曲』「地獄篇」の中の物語にちなんで制作されました。かつて西ローマ帝国の首都にもなったラヴェンナの君主の娘フランチェスカは、政略結婚によって夫となった人の弟パオロと愛し合うようになります。それを知った夫によって2人は刺し殺され、不義を働いた罪で地獄の空をぐるぐる回り続ける運命になってしまいます。この物語に引きつけられたロダンは、≪地獄の門≫の左の柱の上に≪虚しき愛≫を、右の柱の下に≪接吻≫を作りました。さらに不倫の結果虚しい漂流をする2人の姿を、左扉の下の方に≪パオロとフランチェスカ≫、右扉に2つの≪フギット・アモール≫として表現したのでした。

画像:フギット・アモール

5 フギット・アモール

女性の後ろから仰向けになって、追いすがるように腕を伸ばす男性。アクロバティックな感じのする組み合わせが白い大理石で見事に彫り上げられています。この作品は14番と同じようにダンテの『神曲』「地獄篇」の中に出てくるパオロとフランチェスカの物語をもとに制作されました。夫の弟と愛し合ったあげく2人とも殺され、不倫の罪で地獄の暗い雲の中を漂い続ける姿を表現しています。背中合わせの男女は、永遠に一緒になれないという意味になっています。この男女の姿はそれぞれ独立した別の意味を持つ作品を合体させたもので、ロダン独自の手法なのです。男は≪放蕩息子≫という作品そのままであり、胸を反らせた女は≪地獄の門≫の≪考える人≫がいるスペースの左はしに登場しています。なお≪地獄の門≫の右側の扉の中央と右下には、ほとんど同じ格好をした≪フギット・アモール≫が、男女の上下の位置を変えて、2つ取り付けられています。
白の大理石と黒のブロンズで出来上がった≪フギット・アモール≫は材質の違いでこのように全く違った作品に見えています。

画像:シベール

6 シベール

シベールとはギリシア神話の中に登場する大地の女神のことです。1914年にこの作品がロンドンで展示されるときに名付けられました。元々は≪坐る女の習作≫という名前がついていました。頭と腕の部分が取り除かれていますが、これはロダンが肉体そのものの美しさや未完成の美しさを追求するために意識的に行ったもので、トルソ形式と呼ばれる手法です。豊かな大地の恵みをもたらす女神らしい生命力が、良く表されています。この作品も≪地獄の門≫の構想を進める中から生まれましたが、結局「門」には使われず、単独の作品として発表されました。

画像:<影>の頭部

7 <影>の頭部

高さ38cm、実際と同じぐらいの大きさをしたブロンズ製の頭部は、なんと存在感にあふれていることでしょう。この作品は≪地獄の門≫の一番上に立つ同じかたちの男性像を3体を組み合わせた、≪三つの影≫がもとになっています。ロダンはこの<影>を等身大に拡大した作品も作りましたが、≪<影>の頭部≫は拡大した像のうつむいた頭部を、見る人の正面に向くように置かれています。ロダンの作品はいろいろな角度から味わうことができるのです。<影>はロダンが尊敬するミケランジェロを意識して作った≪アダム≫という作品とつながりがありますから、この頭部の表情にはルーヴル美術館にあるミケランジェロの奴隷像を思わせるものがあるようです。

画像:壺を持つカリアティード

8 壺を持つカリアティード

いかにも重そうな壺を左の肩にかついでしゃがんでいる女性の姿は、見ていて痛々しいほどです。カリアティードというのは、古代ギリシアの神殿や中世ヨーロッパの寺院建築で梁を支える柱の変わりに用いられた、衣服を付けた女性の像のことです。これは、昔ギリシアの町カリアが敵国のペルシアと密かに通じ合ったためにカリアの女性たちは永遠に重い荷物を負う罰を与えられたという伝説にもとづいています。ロダン≪地獄の門≫から独立した像として制作し、苦難に耐える人間の象徴としたのでした。同じかたち≪打ちひしがれたカリアティード≫が≪地獄の門≫の左柱の頂に装飾模様に半ば隠れるように登場していますから、比べて鑑賞してみて下さい。

画像:女のケンタウロスのトルソ

9 女のケンタウロスのトルソとイリスのためのトルソ
女のケンタウロスのトルソと絶望する若者
女のケンタウロスのトルソと女のトルソ

≪女のケンタウロスのトルソ≫はギリシア神話の中にも出てくる腰から上が人間、下が馬という怪物をもとにして、本能と知性の葛藤を象徴しています。この3つの作品は、同じケンタウロスのトルソに別の作品を組み合わせて新たな作品にする、アッサンブラージュと呼ばれる手法を用いて作られました。≪地獄の門≫の右側の扉の下で天を仰いで身を反らせる≪絶望する若者≫や、虹の神≪イリス≫のトルソなどが合体され、それぞれが生き生きとした感動を与える作品になっています。
もう一度≪地獄の門≫の前に立って、この女のケンタウロスを探してみては如何でしょう。

画像:考える人

10 考える人

ロダンの彫刻の中で、最もなじみ深い作品がこの≪考える人≫でしょう。詩人のダンテを表現したものとも言われています。台座に座って物思いにふけいってるものの、ポーズは不自然に見えます。右肘を左足の上にのせることにより、右肩や背中の筋肉がより盛り上がります。「考える」という静止したポーズでありながら、作品に動きができてきます。ここにロダンの偉大さがあります。
≪地獄の門≫のティンパヌムから、地獄界で生前の罪を罰せられる人々を眺めおろし、人間の運命を思索している63cmの≪考える人≫は、後に独立した38cmの像や、183cmの拡大した像としても作られました。当館の作品は世界に21あるその拡大像の一つで屋外に展示されたことがないため保存状態が良いことが特徴です。ロダン自身もこの像に特別な思いがあったようで、亡くなった後、彼の墓の前に置くように望んだと言うことです。
荻原守衛が彫刻を志すことになったのも、パリのサロンで≪考える人≫を見たことがきっかけでした。

画像:バッカス祭

11 バッカス祭

バッカスはギリシア神話にでてくる酒の神で、この作品はお祝いの祭りの主人公でもあるバッカスを讃えるお祭り騒ぎをテーマにしています。ロダンは≪地獄の門≫の構想から生まれた3つの像をつなぎ合わせ一体の像にしました。一つは腰から上が人間、下が馬という怪物の≪女のケンタウロス≫、二つめは≪瞑想≫と呼ばれる胸から上の像、そして3つめはバッカスを崇拝して熱狂する女性を表した≪バッカント≫です。このように人間の体のあちこちを寄せ集め、新しい造形をロダンは試みました。彼はこの晩年の手法は、近代美術でいうアッサンブラージュ(寄せ集め)という手法の先駆けといえるでしょう。

その他のモニュメント

画像:永遠の休息の精のトルソ

12 永遠の休息の精のトルソ

ロダンは尊敬する画家、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの記念碑の一部として制作した「永遠の休息の精」の像から、頭と両腕を切り取ったトルソも作りました。左足に重心を置いて傾く姿や、お腹に残る亀裂のあとは元の≪永遠の休息の像≫とそっくりです。そして、頭と腕を除いて上半身の形が簡略化されたために、傾いた胴体のシルエットがより際立ったものになり、トルソならではの未完成の美しさが強調されています。ロダンはこのようにトルソという形態を、完成品の前の段階の習作ではなく、よりいっそう完成した造形美として確立した最初の人なのです。

画像:永遠の休息の精

13 永遠の休息の精

表面を粗く仕上げた若者の体が右に傾いていて、一見すると不安定な感じを受けます。これはロダンが依頼を受けたピュヴィス・ド・シャヴァンヌという19世紀のフランスの画家の記念碑の一部として制作したものです。初めの計画は、休息の精の腰の高さの台にシャヴァンヌの頭の像を置き、それに立てかけた1本の木の果実を、休息の精が台にもたれてもぎとる姿でした。しかしこれは実現せず、独立した作品になりました。足を組み左足に体重のほとんどをかけて傾く、死という永遠の休息を約束する若者のかすかなほほえみ。不安定さがかえって魅力になっている作品といえましょう。胴体の亀裂は粘土がたまたまひび割れてしまったのですが、ロダンはこの効果をあえて残しています。

画像:裸のバルザック

14 裸のバルザック

パリ文芸家協会の1891年当時の会長エミール・ゾラは、小説家バルザックの肖像を作るようロダンに依頼しました。彼は衣装を着た完成像を造る前に、いつものようにまず裸の像を作って、モデルの内なるものを見いだそうとしました。この≪裸のバルザック≫は完成するまでに、ロダンが試験的に作った30点余りの作品の1つです。くの字型に極端に反った体、そしてその突起点に男根を持つ太い手があります。ロダンはバルザックの作風にエロスと創造力の合体を見たのでしょう。バルザック像は「最も苦労した作品」とロダンが述べているように準備に手間取り、1年半で完成という約束の期限を5年もオーバーしていました。サロンに出品したとき「これは彫刻作品ではなく、牛肉の塊」だと非難されたこの作品は、ロダンの死後20数年たってようやくパリの街角ヴァヴァンに設置されたのでした。

画像:バルザックの頭部

15 バルザックの頭部

フランスの有名な小説家バルザックは「谷間の百合」や「ゴリオ爺さん」の作家として知られていますが、激しい波乱の生涯を送ったことでも知られています。22歳の時、倍も年上の人妻と恋に陥ったり、ポーランドの大貴族婦人と熱烈な恋愛をしたこともあります。そして数々の事業に手を出しては失敗を繰り返しました。
このように並外れた個性を持つバルザックを、彫刻家ロダンはここに表現しました。乱れた髪、額のしわ、そして深くくぼんだ目は、指が目の中にすっぽり入るほど穴があいています。このような技法は19世紀の彫刻では考えられませんでした。正面からだけではなく、横からも後ろからもバルザックの奔放な性格や、あふれでる生命力を読み取ることができます。
ロダンは文豪のために7年間もかけて制作に取り組みました。この作品のすぐ横に展示してある9番の≪裸のバルザック≫とあわせてご鑑賞ください。

画像:ホイッスラーのためのミューズ

16 ホイッスラーのためのミューズ

ホイッスラーはアメリカ人の画家でフランスとイギリスで活躍しました。東洋の美にとりつかれ、中でも日本の美術に関心を寄せていました。1903年に、ロダンがホイッスラーの後任としてロンドン国際彫刻家画家版画家協会の会長に決まったということで、この作品の制作を頼まれました。協会からは、羽のある勝利の女神の姿によって、芸術の勝利者ホイッスラーを象徴するように求められました。モデルをつとめたグエンドレン・ジョンは、兄のオーガスタスと共にイギリスを代表する画家です。
この作品で両腕を肩の下の所で切り落とされたミューズが足を掛けているのは、ホイッスラーに対する名声を象徴する山です。像全体の表面は粗く、ロダンの手跡がそのままに近い形で残っています。ロダンは人体像をこのように断片化させることに強い興味を持っていましたが、当時の人々には受け入れられず、とうとう未完に終わってしまいました。

カレーの市民

イギリスとフランスは百年もの間王位の継承や領土の問題で争っていた。北フランスのカレーの港町はイギリスに最も近いことから攻撃されやすく、1347年にはイギリス王エドワード3世が市(まち)を包囲した。王はカレー市を代表する6人の身柄と、市の城壁の鍵の引き渡しを求めた。
この時最初に人質になると名乗りを上げたのが、町の長老ユスターシュ・ド・サン=ピエール。その後5人も死を覚悟して、首に縄を巻き、下着姿で裸足のまま王の陣に赴いた。
当時の記録によると、彼らがイギリス王の前に進み、首をはねられようとする寸前、王妃が彼らを助けるよう願い、王もそれを許したと伝えられる。このエピソードは、フランス人の愛国心と犠牲的精神の象徴ともなった。
このエリアでは≪カレーの市民≫6体の内、長老のサン=ピエールが1体残りの5人と離れて展示してある。

画像:ユスターシュ・ド・サン=ピエール

17 ユスターシュ・ド・サン=ピエール

≪カレーの市民≫6体の中で、ロダンが最も多くの試作品を作って、熱意を込めた作品です。それは記念碑設立委員会がサン=ピエールの像だけをロダンに依頼していたからです。またサン=ピエールは市の長老で、イギリス王の人質になるとき真っ先に名乗りをあげた英雄的人物だったからでもあります。
彼の顔に注目して下さい。右側から見ますと、目は潤んでいて非常な悲しみに満ちています。左側はどうでしょう、長老としての責任感ある厳しい表情に作られています。
身体の方は前かがみになって、まさに左足で重い一歩を踏もうとしています。丸まった背中をかばうように、ひだの多い衣装が彼をすっぽり包んでいます。首に巻かれた太い縄、血管の筋の見える老いた手、波立つあごひげなど、見事に表現されています。ロダン40歳代後半の貴重な一点です。

画像:<カレーの市民>第一試作

18 <カレーの市民>第一試作

1884年にカレー市議会は、ロダンに英雄ユスターシュ・ド・サン=ピエールの記念像を建てるよう依頼しました。しかしロダンは百年戦争中の感動的なエピソードは、一人の英雄の力によるものではなく、6人の集団によるものであると理解し、6人の群像を作ることを提案しました。こうしてこの第一回目の試作品ができあがったのです。けれども当時の記念碑に多かったピラミッド構成を避け、6人を並列させたことから、誰が主人公かわからないという批判を受けました。
各人物はすべて立方体の中で様々なポーズをとっていますが、全体として統一感を保っているのは、全員の首をつないでいる縄と高く掲げられたユスターシュ・ド・サン=ピエールの腕のためでしょう。ロダン自ら名付けた「勝利者型」とか「凱旋門」と呼ぶこの装飾性の高い台座は、古代ローマやイタリア・ルネサンスの重厚な記念碑や群像の台座を思い起こさせます。

画像:ジャン・デール

19 ジャン・デール

≪年代記≫という14世紀の歴史書によると、ジャン・デールは二人の美しい娘を持つ誠実な商人でした。人質になるため、二番目に名乗り出たと記されています。
完成した群像では、降伏の印としてイギリス国王に渡す城の門の大きな鍵を持って立っています。
この裸体の試作品では、握りしめた両手や全身の張りつめた筋肉の盛り上がりに、見えない鍵への重量感がうかがえます。両脚を開いて直立し、唇を固く閉じ、決然として前を見据える姿に、死を恐れぬ強い意思の力が感じられます。左右の腕は互いに異なった反りとひねりを見せ、強調された筋肉の起伏が見事に表現されています。完成作では、この力強い肉体は衣の下に隠されています。

画像:ジャン・ド・フィエンヌ

20 ジャン・ド・フィエンヌ

ロダンはこの人物を繊細な美しい顔つきをした若者に仕上げています。自らの運命の行く末に当惑した様子で両腕を広げ、視線は空(くう)をさまよい、誰というのでもなく周囲に何かを求め、問いかけるようなポーズをしています。
パリのロダン美術館には、全身像だけではなく手、足、頭の部分だけを試験的に作った石膏像やブロンズ像が数多く残されています。ロダンは手の向きや指の仕草一つで、人物像の表情が変化することをよく知っていました。このジャン・ド・フィエンヌの像も、第2の試作から完成作に至る過程で腕や顔の造りを変更しています。

画像:アンドリュー・ダンドル

21 アンドリュー・ダンドル

6体の中で最も劇的なポーズをとるアンドリュー・ダンドルは、人質になるために最後に名乗りをあげたと伝えられています。
両腕で頭を抱えこむ悲痛なポーズは、第1試作の時から完成作まで一貫してアンドリュー・ダンドルを示すものでした。他の5体はロダンの制作中にポーズが大分変更されました。ロダンはこのダンドルの像に対して、はじめから考え方がしっかり固まっていたようです。
激しく迫りくる過酷な運命の嵐から身を守るかのように身体をよじり、苦悩を訴えかけています。像の裏側をご覧下さい。薄い衣の下に透ける背中の素晴らしい線、そして腰にかけての筋肉の起伏や衣のひだは見事に表現されています。

画像:ジャック・ド・ヴィッサン

22 ジャック・ド・ヴィッサン

弟のピエール・ド・ヴィッサンとともに人質になった兄ジャックは、市(まち)でも資産家として知られていました。ロダンは≪カレーの市民≫を5体作った後、構成上残りの隙間を埋めるためこのジャックを作りました。その結果、他の像に比べ、独立した単身像としては不安定なポーズを示しています。
例えば、頭部は髪とひげはあるものの、一文字に結んだ口元や大きく見開いた目、鼻の形などの顔のつくりは19番のジャン・デールと全く同じです。また、右手の形は3番のピエールの右手を変形したものです。しかしながらこの像は、6体を完成させるための役割を充分に果たした像といえましょう。

画像:ピエール・ド・ヴィッサン

23 ピエール・ド・ヴィッサン

ジャック・ド・ヴィッサンとピエール・ド・ヴィッサンは兄弟です。こちらのピエールは弟の方で、完成した群像では左肩から太い縄を垂らしています。
この像は左足に重心をおいて身体をひねり、顔を逸らせ右手を半ばあげています。この姿勢は、6体の中で最も誇張された作品といえましょう。両目を閉じて苦しくもだえる表情の顔に注目して下さい。宙にあげた手の動きや極端に伸ばした首で、ピエールの不安と焦りを強調しています。
ロダンは頭部、手、胴体の研究を個別に進め、それぞれの最も豊かな表情を追求しました。このピエール像はその成果ともいえるロダンの傑作です。

肖像的作品

画像:ヴィクトリア・アンド・アルバートと呼ばれる女のトルソ

24 ヴィクトリア・アンド・アルバートと
呼ばれる女のトルソ

頭と腰から下がなく、高さも63cmと等身大に及びません。しかし、背中をややかがめた女性の姿が見事に表現され、スケールの大きさを感じさせます。この作品は背中が正面で、肉づけは繊細ですが肩の盛り上がりを強調していることが全体を力強く、生き生きと見せる効果をあげているようです。題名はロンドンの美術館の名前にちなんで付けられました。ロダンは第一次世界大戦が起きた1914年にロンドンへ逃れ、そこで開いた個展の作品をヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に寄贈したのです。またロダンは、自分のコレクションの1つの古代の壺を使用し、この女のトルソが壺の中から出てくる形にしたアッサンブラージュ(寄せ集め)の手法も制作しています。

画像:バスティアン=ルパージュ

25 バスティアン=ルパージュ

ロダンと交流のあったこのフランスの画家は、1848年に生まれ、36歳という若さで亡くなりました。正確なデッサン力で農民や歴史的人物、自然を描き、高く評価された自然主義の画家です。
この作品で、バスティアン=ルパージュはマントの付いたジャケットを着、頑丈な靴を履いて外で絵を描いているポーズを取っています。右手に持つBLというイニシャル付きのパレットの絵の具のつき具合で、画家が目下制作中であることがわかります。
大きく開いた足はしっかりと草地を踏み、作品に安定感を持たせています。堅く結んだ口、一点を凝視した目など、緊張感漂うロダン40代後半の力作といえましょう。≪カレーの市民≫と並行して作られました。

画像:<ラ・フランス>習作

26 <ラ・フランス>習作

きりりと引き締まった表情で一点を見つめる女性の、なめらかな顔立ち。それとは対照的に、頭の被りものや肩、胸の部分はとても粗削りです。作品を完成させる前の段階の習作ですが、実に堂々として風格があり、存在感に溢れています。この作品は、フランスを擬人化したもので、ロダンの弟子で恋人でもあった、カミーユ・クローデルの顔が写されています。頭に兜をかぶり、敵に立ち向かう女性の騎士の姿がイメージされ、ロダンの晩年の作としてはめずらしく愛国的なテーマをあつかった作品です。

画像:クロード・ロラン

27 クロード・ロラン

ロダンは1889年に、フランスのナンシーという市から「クロード・ロランのモニュメント」を設置したいという依頼を受けました。クロード・ロランといえば17世紀にイタリアで活躍したフランス人の風景画家で、後のイギリス人画家ターナーを始め、多くの風景画家に影響を与えた、美術史上重要な画家です。当館にも牧歌的な主題を描いた油絵が所蔵されています。彼の描く朝日や夕日の見事さは、絵の中の古代イタリア建築と美しくとけ合い、300年たった今日においても人気は衰えていません。
ロダンは太陽の光と深く関わった画家クロード・ロランを想い、ナンシーの公園に4m近い台座を作り、その上にロラン像を置きました。彼の目を一方向に向けさせたのは、日の出を眺めさせてあげるためでした。

画像:ボードレールの頭部

28 ボードレールの頭部

ボードレールは19世紀のフランス人の詩人で、批評家でもあります。彼の有名な『悪の華』という詩は、ロダンがダンテの『神曲』を近代人の視点から解釈する上でよりどころとなり、≪地獄の門≫制作にも影響を与えました。この詩人の記念碑を建設するための募金運動が始まり、その制作がロダンに依頼されました。ところが募金が十分集まらなかったことから、ロダンはこのように頭部のみを制作したのです。
当館のボードレールの頭部は、パリのロダン美術館が1950-81年に鋳造した12点のうち、最初の鋳造作と見なされています。保存状態が良く、パティナ※の美しさが優れています。額に盛り上がった突起は、作品に光が当たったとき、つるりとした平坦な感じを与えないように、ロダンが制作の最後に加えたファイナル・タッチだといわれています。
※パティナ/落ち着いた色に仕上げるために、ブロンズ彫刻の表面に塗る薬品のこと。

画像:花子のマスク

29 花子のマスク

眉を寄せ、やや下の方を見つめる目、そして堅く結んだ唇。苦しげで何か思いつめたような表情が、見る者の心をとらえます。ひと目で東洋の女性と分かるモデルの、人間性そのものを描ききった作品といえるでしょう。花子は本名を「太田ひさ」といい、名古屋の生まれです。芸者などをしたあと1902年、34歳の時コペンハーゲンの博覧会の仕事でヨーロッパに渡り、その後20年間も欧米各地で芝居を演じました。ロダンとの出会いは1906年のことです。マルセイユで花子が幕切れに自害する芝居を見て、その演技力に惹かれたロダンは、直ちにモデルになるように頼みます。この作品が苦悶の表情をしているのはそのためです。現在ロダン美術館には、苦悶する顔や瞑想する表情など、58点の花子の首が納められていますが、この作品は最も大きなものです。
なお、花子は53歳の時帰国、1945年の終戦直前に岐阜市で77歳の生涯を終えました。

ロダン以前の作品

19世紀のフランス絵画は、ダヴィッドやアングルに代表される新古典主義と、ジェリコーやドラクロワに代表されるロマン主義の対立にはじまり、バルビゾン派、レアリスム、印象主義へと展開していったが、こういった運動を支えた画家たちと同等の名声を獲得した彫刻家は、実質的にはロダン一人であった。ロダン以前の19世紀フランス彫刻は、絵画ほど革新的でなく、ロダン自身も、古典古代、ゴシック、ルネサンス、バロックといった伝統に学び、着想を得ることが多かった。
しかしこの時代には、ロダンに及ばないまでも、かなり才能豊かな彫刻家たちが活躍していた。ドラクロワの友人であったバリーは、格闘する動物にロマン主義の画家たちを魅了した力の表現を見いだしたし、ロマン主義彫刻の旗手、リュードの甥にあたるフレミエは、異国趣味あふれる主題を、解剖学的知識に基づき写実的に表現した。
リュードを先達とするカルポーは、新古典主義の洗練された作風に、ロマン主義の生動感を加味して、形骸化したアカデミズムの打破をはかった。18世紀のフランス彫刻の伝統に学んだカリエ=ベルーズは、神話の人物を組み合わせたテラコッタ彫刻によって、1870年代のロダンに大きな影響を与えたし、ロダンの友人でもあったダルーは、親しみやすい風俗的主題によって、英国とフランスで大いに世評を高めた。

画像:ニンフを連れ去るサテュロス

30 ニンフを連れ去るサテュロス
アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズ

若きロダンの師匠としてして知られる19世紀フランスの彫刻家カリエ=ベルーズは、当時流行のかたい新古典主義よりも、18世紀ロココ風のやわらかいスタイルを好んだ作家です。大理石、テラコッタ、ブロンズ、石膏、陶器など幅広い素材を扱っています。
この作品は神話の登場人物2人を見事に表現しています。腰にタンバリンをぶら下げた山羊の脚を持つサテュロスが、ニンフを担ぎ上げ、連れ去ろうとしているところです。粘土を型どりして焼き上げたテラコッタで、サテュロスの脚やニンフの髪、タンバリンなど、作者の技の冴えがみてとれます。

画像:ナポリの漁師の少年

31 ナポリの漁師の少年
ジャン=パティスト・カルポー

ロダン以前の19世紀フランス彫刻界において、アカデミックで型にはまった構成の中に、生命力のある表現をもちこんだカルポーは貴重な存在でした。パリの街角には彼の代表的なモニュメントが見られますし、時の皇帝ナポレオン3世にも認められ、宮廷から多くの注文を受けています。
この作品は、ローマ賞を得て、一時イタリアに滞在していた頃に発表されたものです。上半身をわずかに傾け、大ぶりの巻き貝を耳にあてた若い漁師の滑らかな体は、左足を立て、右膝をついた下半身によって安定しています。潮騒の響きと楽しむような晴れやかな表情からは、すがすがしい海辺の匂いまで感じ取れるようです。
新古典主義の堅実な構成と、はつらつとした写実的な表現が調和した、カルポー中期を代表する作品といえるでしょう。

画像:悲しみの聖母

32 悲しみの聖母
ジャン=バティスト・カルポー

最愛の息子キリストが十字架にかけられたことを悲しむ聖母マリアの胸像です。激しく頭部をよじらせ、十字架の上のキリストを見据える目からは、大粒の涙が流れようとしています。
その深い嘆きは、表情からだけではなく、ヴェールの襞の激しい凹凸からも感じ取れますが、これは作者が尊敬するミケランジェロの≪ブルータス≫像に影響を受けた表現であるといわれています。仕上げ一歩手前でとどまったような肉付けも効果的です。緊張感みなぎる造型と、生命力あふれる写実的な表現にすぐれたカルポーの作風は、近代彫刻に大きな影響を与え、ロダンにも受け継がれています。
この作品は48歳という若さで亡くなったカルポーの、最も完成された時期の作品で、材質は型どりした粘土を焼いたテラコッタです。

画像:ライオンと蛇

33 ライオンと蛇
アントワーヌ=ルイ・バリー

ロマン主義彫刻を代表する作家であるバリーは、マイナーであった動物彫刻を一つのジャンルにまで高めたことでも知られています。なかでも、このライオンと蛇の組み合わせは、激しい動きと緊張したポーズを好んだ作者の代表的なシリーズです。
かま首をもたげて大きく牙をむく蛇を右足で押さえつけ、今にも喰いつこうとするライオンは、荒々しい感情をすばやいタッチで表現するロマン主義の特徴をテーマと表現の両面から、よく示しています。細かい部分の仕上げも見事で、生きた動物だけでなく、死んだ動物や骨格標本なども詳しく研究した成果が生かされているといえるでしょう。
ロダンはバリーについて「私が最も多くを受け取ったのはバリーからであった。」と語っています。

画像:乳を与えるパリの女

34 乳を与えるパリの女
エメ=ジュール・ダルー

ダルーは先輩の彫刻家カルポーによって才能を見いだされたパリ生まれの作家です。1871年から8年間イギリスに滞在し、この作品は、その頃作られたものです。
1870年代前半のダルーは、椅子に座った足を組む女性にモティーフを求め、主に妻をモデルにした作品を発表して、ロンドンの美術館で注目を集めました。帰国後のフランスでも、母性を表現した気取りがなく親しみやすいこれらの作品は、好意的に迎えられています。ゆったりとした襞の衣服や、木製の椅子に当時の風俗が感じられ、テーマを写実的に素直に表現する作者の特徴があらわれているといえるでしょう。
彼と長年の友人であったロダンは、ブロンズで≪ダルーの肖像≫を制作しています。

画像:バラの髪飾りの少女

35 バラの髪飾りの少女

この愛らしい少女像は、18世紀にヨーロッパで流行した、美しく軽快なロココ的雰囲気を持っています。粘土を型どりして焼いたテラコッタの作品です。
ロダンは24歳から当時売れっ子の彫刻家のアルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズの元で助手として働いていました。1870年にドイツとの戦争が始まると、カリエ=ベルーズは戦火を逃れてブリュッセルに移っていきました。ロダンは国民軍に招集されましたが、近視のためすぐに退役させられてしまい、カリエ=ベルーズを追ってブリュッセルに赴き、滞在中にネオ・ロココ風の一連の少女像を制作しました。
この作品では美しいバラの花、軽やかに波打つ髪、滑らかな目そして今にも歌い出しそうな口元が見事に表現されています。若きロダンの貴重な作品といえましょう。

画像:蛇使い

36 蛇使い
エマニュエル・フレミエ

フレミエはパリで活動した19世紀ロマン主義の彫刻家です。動物の骨の研究などから得た解剖学的な知識が豊かで、それが作品にも活かされています。
ダチョウの羽根飾りをつけた帽子を被り、腰布をまとった蛇使いの少年の目は、左腕の大蛇の頭を見つめています。それを観る私たちの視線は、自然に、少年の背中を回って右腕に巻きつく蛇の体をたどっていくことになります。人物と蛇と組み合わせたことにより、作品に空間的にな効果がもたらされています。
エキゾチックなテーマで動物と人物とを結びつけ、科学的な知識に基づいて表現したフレミエの特徴が、よくあらわれている作品です。またロダン以前のロマン主義彫刻を知る上でも、よい作品であるといえるでしょう。

ロダン以降の作品

粘土の直付けによる人体彫刻の制作に長けていたロダンは、その自然観察力と強い表現力、独自の肉感などによって、死にかけていた19世紀の彫刻にエネルギーを注ぎこんだ。彼と同時代、もしくは彼に続く彫刻家たちにとって、ロダンは意識しないわけにはいかないほど大きな存在となっていた。
彼の弟子クローデルは、公共的なモニュメントとは正反対の個人的で親密な室内彫刻を作った。助手を務めたブールデルは、より堅固なフォルムを求めてロダンから独立していった。一方マイヨールはむしろ静かでなめらかな表面を持つ女性の体で抽象的なテーマを表し、ドイツ人レームブルックは、マイヨールよりももっと肉感を消去しながら裸体に精神性を宿らせる。同じくドイツ人であるバルラッハもまた、普通の人々の日常性からにじみでるような精神性を表現した。ロッソはロダンとは異なる表面処理を用いて、彫刻の質感をかつてないものにしていった。
20世紀に入ると、ブランクーシ、ゴーギャン、ジャコメッティ、ムアなど、非ヨーロッパの文明に価値を見出し、その造形を借用する作家たちが現れてくるが、それもまた、ヨーロッパ彫刻の伝統の後継者ロダンを横目に見ながらのことであった。一方、≪地獄の門≫でロダンが苦悩していた作品空間の問題は、アーキペンコ、リプシッツらのキュビスムの彫刻空間によってひとつの解答にたどりついた。ヴォリュームによってではなく、面や虚空によって分析され解体された対象は、相対的にしか把握されえない近代の人間の現実を示している。

画像:<イル・ド・フランス>のトルソ

37 <イル・ド・フランス>のトルソ
アリスティード・マイヨール

祖国フランスへの尊敬を込めて作られた作品<イル・ド・フランス>のトルソです。胴体のみの彫刻であるトルソに、独立した作品としての芸術性を発見したのはロダンでした。
マイヨールは<イル・ド・フランス>について、鋭い三角形で取り囲まれていると述べていますが、その幾何学的な構成は、手や頭など余分な部分のないトルソにおいて、より効果的にあらわれています。
この作品は、マイヨールがロダンから引き継いだトルソに対する考え方をよく示しています。さまざまなテーマで、数多くの裸の女性像を制作したマイヨールは、人間の体をそのままうつすのではなく、この作品のように存在感に満ちた単純な造型に仕上げています。それによって、個人の存在をこえた、もっと大きく深いテーマを表現しようとしたのです。

画像:波

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カミーユ・クローデル

クローデルはロダンの弟子であり恋人であった女流彫刻家ですが、晩年の30年間は精神病院に入れられ、これをロダンの仕わざと誤解したまま、1943年、79歳で亡くなりました。その弟のポールは大正末期の駐日フランス大使です。このブロンズの作品はロダンから独立して一人で制作に打ちこんでいた頃に作られたもので、彼女が開拓した風俗彫刻の代表作です。第一作では波の部分はオニックスという石で彫られています。
この作品では、三人の女性は立ち上がる大きな波に比べて小さな存在としてとらえられています。
クローデルは浮世絵師・葛飾北斎の富士山と波と人物との作品を見て、自然の雄大さと人間の存在の小ささを感じとったようです。浮世絵をパリで広めた画商の林忠正は、彼女のこの「波」の彫刻をほしがったといわれています。フランスと日本の芸術が融合した、きわめてめずらしい作品と認めたからでしょう。

画像:アポロンの首

39 アポロンの首
エミール=アントワーヌ・ブールデル

アポロンはギリシア神話に登場する、光と予言と牧畜を司る神です。近代フランスを代表する彫刻家ブールデルが、このテーマに取り組み始めたのは、ロダンのアトリエを去る3年ほど前のことでした。彼は約15年間ロダンの助手として働いていますが、ロダンの主観的でロマンティックな表現に次第に満足できなくなり、別の道を歩みます。この作品もロダンの影響を離れて作られたものです。
古典的ともいえる鋭く厳しい造型と、幾何学的な線によって構成された台座の組み合わせは、秩序を重んじながら新しい表現を追求したブールデルの本質をよく示しています。
≪アポロンの首≫を見たロダンが「君は私を越えた」とつぶやき、二度とブールデルのアトリエを訪れなかったというのは有名なエピソードです。

画像:ロダンの肖像

40 ロダンの肖像
エミール=アントワーヌ・ブルーデル

ブールデルは長年ロダンのアトリエで働いていました。
情熱的なロダンの精神性を優れた技で表現し、後ろを幾何学的な形で固めることで全体をまとめています。
ロダンはたぐいまれな器用さと情熱にまかせ、時として彫刻の骨組みを無視して肉付けするような制作をしていました。ブールデルはそのようなロダンの主観的な表現に飽きたらず、別の作風を求めました。「私のあらゆる組立は、ロダンの芸術をまとめていた法則とは全く別のもので、私の出発点もまた、全く彼とは反対のものなのである」と後に述べています。しかし一方では、どんなに作風が違おうと、その土台にロダンの芸術があることも知っていました。この作品は、そうした気持ちから構想された、ロダンを讃える記念碑の一部です。

画像:痛める男

41 痛める男
メダルト・ロッソ

イタリアのトリノに生まれたロッソは、人や物を独立した存在としては見ず、まわりの空気や光などの環境と共に捉えようとした彫刻家です。絵画的な表現や細かい部分の省略を大胆に取り入れ、彫刻の印象派ともいうべきユニークな作品で知られています。ロダンのバルザックは自分のアイデアを盗んだものだと裁判を起こしたことも有名です。
日常生活からモティーフを取ることが多く、この作品もパリで入院したときに作られたものです。素早い手のタッチを残し、光に溶け込むような表面の効果を持つロッソ特徴が良くあらわれていて、老人と肘掛け椅子と、それらをのせた土台が一体となり、まわりの空気と融合しています。
ロッソの彫刻はつねに作者自身によって鋳造されました。この作品でもブロンズの表面に、鋳造の時に用いた石膏と煉瓦の粉が意図的に残されていて、最終的な仕上げの一歩手前でとどまったことが独特な効果を生み出しています。

画像:母と子

42 母と子
ジャック・リプシッツ

リトアニアに生まれたリプシッツは、パリで彫刻を学び、1912年頃から作品を発表しています。当時はロダンやその弟子たちの作品がもてはやされていましたが、その影響を離れたスタイルの彫刻を彼はめざしていました。
≪母と子≫のテーマは、イエス・キリストと聖母マリアの像以来、多くの芸術家によって扱われてきました。リプシッツは≪母と子≫を幾何学的な造型でこのように表現していますが、2人が接吻することによって作品に暖かみを作り出しています。彼が集めていたアフリカ彫刻の影響を受けつつも、リプシッツ独特のキュビズム的スタイルをこの作品に見ることができます。

画像:<化粧する女>習作

43 <化粧する女>習作
アレクサンダー・アーキペンコ

キュビズム運動の発展に大きな役割を果たした彫刻家アーキペンコは、原始的な造型と現代的な構成を結びつけた新しい傾向の作品を次々と発表し、現代彫刻に新しい表現を開拓した作家として、高く評価されています。
この作品は、ガラス、木、金属など、さまざまな素材で、2m以上の大きさに作られ、今は失われた≪鏡の前の女≫という作品の頭の一部です。ピカソが作りはじめた面の組み合わせによるレリーフの影響を受けた作品といえるでしょう。角度に変化を付けて組み合わされた平面と、それらの面が作る窪みには、絵画と彫刻といった区別を取り外し、幅広い技法や特徴を自由に用いて新たに組み立てていく当時のアーキペンコの手法が、よく示されています。

画像:ポガニー嬢II

44 ポガニー嬢II
コンスタンティン・ブランクーシ

現代彫刻に大きな影響を与えたブランクーシは、30歳の時ロダンにしばらく弟子入りしますが、「大木の下にはなにも育たない」と考えてロダンから離れ、人や物の形を写実的に写すのではなく、本質を表現しようとしていきます。その結果単純なフォルムと流れるようなラインを持つ独特の作品が生み出されました。表面をぴかぴかに磨き上げるのも特徴の一つで、作品に絶対的な形を与えるために必要であると作者自身が述べています。下の粗い部分と光り輝くスムースな面は、ブランクーシならではの見事なコントラストを作り出しています。
この作品は数少ない肖像彫刻で、ハンガリー人の画家のマージット・ポガニーがモデルをつとめています。ブランクーシのアトリエ近くに住んでいたポガニーは、モデルとして彼の前に何度か座らせられました。この像は約20年間にわたって制作された3つのシリーズの内に2番目の作品です。丸い頭に大きな目という単純な形ながら、見る角度によって、いろいろな表情を見せてくれます。

画像:横たわる女

45 横たわる女
アルベルト・ジャコメッティ

スイス生まれのジャコメッティは、細長い人間像で良く知られる作家です。パリでブールデルの弟子となり、自然主義の彫刻を学びましたが、その表現に自信がもてず、キュビズムを経て、シュルレアリスム運動に参加しました。この作品はちょうどそのころに作られています。
横にしたスプーンのような形に単純な形を組み合わせただけでありながら、女性の本質を十分に表現しているといえる作品です。大きな窪みの中に見られる小さな3つの膨らみが、この作品に人間の肉体を感じさせます。
ジャコメッティは、シュルレアリスム彫刻に新しい造型をもたらしましたが、やがてそこを離れ、現実を見えるがままに表すことに取り組みます。そして長く苦しい時代を経て、独自のスタイルといえる、あの細長い人間像にたどりつくのです。

画像:横たわる人体

46 横たわる人体
ヘンリー・ムア

イギリスが誇る20世紀最大の彫刻家といわれるヘンリー・ムアは、この「横たわる人体」のテーマを長い間追求しました。立ったり座ったりするポーズよりも、横たわった体が一番安定があるとムア自身が語っています。
ブロンズ製の台座に女性が足を置き、腰を下ろすという一見何の変哲もない作品に見えますが、この姿はムアが理想としていた大地と人体との融合の表現でもあります。
ムアはイギリス北部にあるヨークシャーの炭坑夫の息子として生まれましたが、20歳で美術学校に入り、以後亡くなる88歳まで彫刻活動を精力的に続けました。
小さい作品ながら、この≪横たわる人体≫はムア79歳、晩年の貴重な作品です。

画像:女のトルソ

47 女のトルソ
ヴィルヘルム・レームブルック

レームブルックは、バルラッハと並んで、20世紀初めにおけるドイツ表現主義彫刻の代表者の一人です。1910年から14年までパリに滞在し、ブランクーシやアーキペンコ、モディリアニたちの単純な造型におおきな影響を受けました。このトルソは、パリ滞在中に制作されたもので、作風の変化がうかがえるでしょう。
女性の小さく引き締まった頭を、すっと上にもたげることにより縦のラインを強調し、すっきりとした美しさを表現しています。また筋肉など体の表の余分な凹凸を省いてなめらかに処理することで、内面の美しさをも感じさせてくれます。
セメントで型どりされたこの作品は、作者の最も優れたトルソであると言われるほど、高く評価されています。

画像:オヴィリ

48 オヴィリ
ポール・ゴーギャン

「オヴィリ」は「野蛮人」を意味する言葉で、タヒチの歌に由来していますが、この作品の意味は明らかになっていません。この世に生きる全てのものを象徴する獣を押さえつけた、死と再生の女神の像であると解釈される一方、近代ヨーロッパ文明を否定し、原始にあこがれる野蛮人、すなわちゴーギャン自身を表しているとも考えられています。
土で形を作り、うわぐすりを掛けて焼き、彩色を施した像を石膏にとって、表面を木彫り風に処理した作品です。南国的な特徴を持つ女性が、左の腰に一匹の小さな狼を押しつけ、足の下に大きく口を開けたもう一匹の狼を押さえこんでいます。
この作品はタヒチのゴーギャンの墓にも置かれています。

画像:読書する僧たちIII

49 読書する僧たちIII
エルンスト・バルラッハ

バルラッハはレームブルックとともに、ドイツ表現主義彫刻を代表する彫刻家です。素朴で落ち着いた内面性を重視する作品でよく知られています。
読書する人物像はいくつか制作されていますが、この作品では2人の僧が1冊の本を一緒に読むという構成がとられています。一人は本をしっかりと押え、もう一人は祈るようにかたく両手を結んでいます。全体に凹凸の少ない単純な造型ですが、単に人物を描写するのではなく、2人の精神性をよく表しています。
彼は退廃芸術家としてナチスの激しい弾圧を受けましたが、この作品は時代の暗さを感じさせない、穏やかな充実感をたたえています。

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