1836-1924(天保7-大正13)
京都に法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。はじめ猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、明治のはじめには鉄斎を名としたこともあるが、のち百錬を戸籍上の名とし、字を無倦、号を鉄斎とした。石門心学、漢学、国学、陽明学、詩文、勤王思想などを学ぶとともに、生涯2万点にものぼる絵画を描いた。明治のはじめ一時神官に就いたが、明治5(1882)年京都に帰ったのちは集成、学者文人として画作三昧の生活を送った。「決して意味のないものは描いていない」という言葉に示されるとおり鉄斎の絵は幅広い知識を背景にしたものが多く、明清画の系統をひく文人画を軸に、大和絵、狩野派、琳派、大津絵など様々な流派の技法を加え、独自の画境をつくりあげている。自由奔放な描線、独特の人物の表情、大胆な構想、それまでにない色彩感覚や造形感覚など魅力ある作品を次々と世に出した。その生き生きとした鉄斎の芸術は80歳を過ぎても衰えを知らず、むしろ80歳代になってますます冴えをみせたが、90歳を迎える前日大正13年12月31日に没した。 |
蜀国桟道図 1905(明治38)年頃 |
蜀国桟道とは中国四川省と陜西省を結ぶ険しい山道で、古来より難所として知られる。画題としてもしばしば取り上げられた。鉄斎は学問に支えられた広い知識を背景に、仙境図をはじめ中国の主題による作品を多くのこした。当然のことながら、「胸中丘壑」を写す山水画の作例も多い。鉄斎は山水画においても、伝統的な水墨の手法によりつつ、ダイナミックな画面構成、近代的な色彩感覚など、随所に強烈な個性を示した。 |