1761-1828(宝暦11-文政11)
姫路城主、酒井忠以の弟として江戸に生まれる。父は酒井忠仰。名は忠因、字は暉真、号は鴬村、軽挙道人、雨華庵、通称は栄八。17歳で元服した頃には俳諧をたしなみ、さらに茶、香、和歌、蹴鞠など多種の才芸に親しむなど、自由な文人として生涯を過ごした。37歳のとき、西本願寺の文如の弟子となり、権大僧都に任じられている。絵は、はじめ狩野派を学び、親交のあった谷文晁の影響を受け、沈南蘋の写生画・浮世絵・円山派・土佐派など、当時の諸流派の画風を広く遍歴したが、尾形光琳の作品に感銘をうけ、最後には光琳画風の復興を志すようになった。文化12(1815)年には光琳百年忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を出版、また文政6(1823)年には『乾山遺墨』を刊行するなど、光琳、乾山の顕彰に努力した。花鳥画をよくし、写生に根ざした光琳の装飾画を継承した画風の、抒情性と江戸的な洒脱味を加えることに成功した。代表作に光琳が宗達を模写した《風神雷神図屏風》の裏に描いた《夏秋草図》(東京国立博物館蔵)などがある。 |
月夜楓図 1817-28(文化14-文政11)年 |
抱一は尾形光淋の影響のもとに装飾性に富んだ草花・花鳥図を多く描いた。鋭敏な感覚に貫かれたその絵画世界には、写生にもとづいた忠実な形態把握とともに、その根底に江戸文学、とくに俳諧の酒脱な精神が常に存しており、京淋派と異なった江戸淋派独自の世界を築いた。彩色画のほかにも、宗達以来淋派において優れた特色を示す水墨画にも傑出した作品を多くのこした。 |