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竹内 栖鳳
TAKEUCHI Seiho

1864-1942〈元治1-昭和17)

京都に生まれる。本名恒吉。土田英林・幸野楳嶺(ばいれい)に学び、円山応挙(1733・享保18-1795・寛政7)以来はぐくまれてきた、京派特有の優麗な写生画法を学習した。1884(明治17)年に京都府画学校の北宗画科に入学。翌々年、祇園中村楼で催されたフェノロサ(1853-1908)の美術講演会に参加し、大いに感銘する。 種々の展覧会で受賞を重ね、1895(同28)年、京都市美術工芸学校の教諭に迎えられる。 こうした時期にあって、1900(同33)年から一年にわたった渡欧は、栖鳳に、西洋美術における写生の在り方や光の扱い方についての理解を深めさせると共に、日本の美術に対するきびしい反省の機会を与えた。1907(同40)年、文展が創設されると審査員に任命される。また1920・21(大正9・10)年の2回にわたる中国旅行を通じて、湿潤な大気の表現やうるおいのある色彩法の点で、新たな画風の展開をみた。 このように栖鳳の作品は、徹底した写生の習練の上に、瀟栖でかつ軽妙な要素が加わり洗練された絵画世界を形成している。 ながく京都画壇の総帥として活躍し1937(昭和12)年文化勲章を受章した。


揚州城外

揚州城外

1922(大正11)年
絹本着色 掛幅装 55.0×71.2cm
昭和58年度購入

栖鳳は、1920・21(大正9・10)年の両年、春から夏にかけてのほぼ同じ季節に、中国の江南地方を訪れた。これは、自らの画業を進める上での課題となっている東洋画の本質を思索・発見するための旅であった。各地を見学した栖鳳は、自然と人間の生活が豊かにとけあった彼の地の風土に魅了され、多くのスケッチを描いており、帰国後もそれらをもとに、数多くの中国風景画を描いている。≪江南春寺静(龍華春色)≫(1921頃)・≪南清風物≫(1926・同15)・≪城外風薫≫(1930・昭和5)などの作品に代表されるその一連の風景画では、塔や石橋が重要なモティーフとなっている点が指摘されている。
「揚州城外」と題される本図においても、画面中景の、ゆっくりと蛇行する運河にかかる大きな石橋は、前景---たっぷりとした色彩とリズミカルな筆さばきによる葉叢の大樹---から、遠景---人家や城跡---へと、私達の視線を展開させる、重要なモティーフとなっていることが理解されよう。本図では更に、他の作品と比較すると、人物が小さく描かれているが、いずれも中国の雄大な自然にとけこんでいる点に注目したい。
この意味で、卓抜した構図のうちに、ゆるやかな刻(とき)の流れが表現されている本図は、栖鳳の中国旅行の成果として位置づけられる優品である。(Tm)


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