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呉 春
GO Shun

1752-1811(宝暦2-文化8)

江戸時代中期の画家で四条派の始祖。はじめ松村月溪の画名で南画家として出発したが、のち中国風に呉春と改称した。本姓は松村、名は豊昌。字は伯望、通称を文蔵といい、号に月溪・可転・允白・孫石などがあった。 金座年寄役の子として京都に生まれる。若年の頃、当時の人気画家大西酔月に絵を学び、ついで20代で与謝蕪村(1716-84)に俳諧と絵画を学んで、その情趣性にとんだ文人画風につよい影響を受けた。天明元(1781)年、30才のとき、池田(現在の大阪府池田市)に移り住む。呉春という呼称は、当地(呉服(くれは)の里という古名をもつ)で春を迎えたことに由来している。この後8年間の池田時代は、彼の円熟期としてとくに注目される。その後、京都に戻り、円山応挙らとの交友をつうじ、蕪村画風から平明な応挙の写生画風へと接近して行った。呉春の軽妙で酒脱みのある新しい画風は、洗練された趣味をもとめる京都の市民層に歓迎された。 彼の一門は、多くが京都四条付近に住んだため四条派と呼ばれ、その伝統は円山派とならんで近代の日本画にまで引き継がれている。代表作として、池田時代の≪柳鷺群禽図屏風≫(重要文化財・個人蔵)、応挙学習時代の≪白梅図屏風≫(重要文化財・逸翁美術館蔵)、醍醐寺三宝院襖絵、妙法院襖絵などが知られる。


柳陰帰漁図

柳陰帰漁図

1783(天明3)年
紙本墨画淡彩 二曲一隻屏風 161.3×183.0cm
昭和59年度購入

画面右方に書された「写於敏馬浦客舎呉春」(敏馬浦(みぬめのうら)の客舎において写す、呉春)という款記から知られるように、本図の制作地は敏馬浦(現在の神戸市灘区を流れる都賀川が海に注ぐあたりの古名で、万葉集にも歌われた風光明媚な地)である。また、呉春が同地を訪れたのは天明3年(1783)32歳時のみであるため、制作年も明らかとなる。同年は呉春が池田に移り住んで3年め、最充実期であり、同時に師蕪村が他界した年でもあった。
漁師のあくの強い顔、初夏の光に輝く柳の葉、岩の形態などの表現には、蕪村の影響がみられる。しかし伸びやかな描線や、親子孫3代とおぼしき三人の漁師を、画面左側一箇所に集中させて正面視・背面視・側面視とそれぞれの角度でとらえ、老・壮・若の各世代に描き分けた機知的な構図、描かれた対象の示す現実感は、呉春特有のものである。呉春は、この後、円山応挙と交流を深め、写生画風をつよめていった。
蕪村から学んだ文人画のいわば表現主義的傾向や叙情性と、写生重視の応挙に近い呉春本来の性質が生む現実感という二つの傾向が、ほどよい均衡を保っており、この点で本図は呉春画の魅力を充分にしめしている。(Yy)


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