1763-1840(宝暦13-天保11)
田安家の家臣で漢詩人でもあった谷麓谷(ろこく)の子として、江戸下谷根岸に生まれる。字は文晁、通称文五郎、号は画学斎・写山楼など。 絵を加藤文麗(ぶんれい)、渡辺玄対(げんたい)、鈴木芙蓉について学んだ。20代から30代にかけては、中国の北宗画と南宗画の折衷的な様式によっていたが、次第に南宗画的色彩の強い作風に移行してゆく。 しかし40代前後より、闊達な運筆と明確な墨色の変化を示す浙派への傾倒を示す一方、40代後半には再び、墨色の微妙な諧調を復活させている。この傾向は50代において一層深まり、墨面の効果を意識した、うるおいのある山水画を描いている。 このように文晁は、中国絵画の影響を様々にうけ、その画風を変化させているが、伝統的な大和絵や新しい西洋画についても、積極的な関心を示している。 代表作には、≪公余探勝図(重文)≫(1793・寛政5)・≪木村華葭堂像≫(1802・享和2)などがある。江戸後期の文人画の大成者であると共に、その門から渡辺崋山やなどのすぐれた画家が輩出した、画壇の大御所的存在でもあった。 |
「富士山図屏風」 |
本作は、文晁が晩年に到達した心象風景とでもいうべき風景画の境地で、江戸後期の富士山図の中でも傑出した作。自由な水墨のタッチによって秀麗な形の富士を描く。富士の稜線につけられた群青は大変美しく、画面の中で大きな効果をあげている。勢いある筆の線と柔らかな墨の面、さらに一状の群青の効果があいまって、江戸風の洒脱な趣きを醸し出している。文晁73歳の時の作品。 |
連山春色図 1797(寛政9)年 |
その画業の前期・中期・後期と様々に画風を展開させていった文晁にとって、山水画はきわめて重要なジャンルであり、それぞれの時代に、多くの興味深い作品を制作している。 |