1602-1674(慶長7-延宝2)
江戸幕府誕生の前年に京都で生れる。桃山時代の匠狩野永徳は祖父にあたる。 早熟の画家であり、11才時に駿府で徳川家康に謁見、江戸移住後、16才で幕府の御用絵師となった。江戸城・二条城・名古屋城の障壁画制作、≪東照宮縁起絵巻≫の制作など数々の公儀の御用をつとめ、また大徳寺・妙心寺などの大寺院障壁画をはじめとする精力的な制作活動が73才の没年まで続いた。遺作は多く、山水・花鳥・人物画・仏画、いわゆる大和絵・漢画など幅広い領域にわたっている。 広い余白を設けた理知的な画面構成、簡潔で柔軟な筆墨は、それまでの狩野派様式を一新し、その軽淡瀟栖な画風は、江戸時代にふさわしいものとして豪壮華麗な桃山画風に代わり支持された。晩年の繊細で詩情あふれる作品も、探幽独自の魅力を示しており、近年、注目されている。こうした探幽の画風は以後の規範となり、門流である江戸狩野は、時代を通じ官画派として栄えることとなるが、狩野派だけでなく光琳や応挙をはじめ、以後の江戸時代絵画界全般におよぼした探幽の影響ははかりしれない。 なお、探幽が中国・日本の古画を丹念に模写した膨大な≪探幽縮図≫(各地に分蔵)は、彼の非凡な学習意欲をしめすものであると同時に、当時の伝存絵画の目録として中国・日本の絵画史研究上、高い価値を有している。 |
富士山図 1667(寛文7)年 |
探幽の富士図は、18世紀の桑山玉洲らの称賛にみるように、探幽以後の時代にも注目され、富士図の典型として認識されていた。探幽自身、この主題に特につよい関心を傾け、数多くの富士図をのこしている。なかでも、探幽が66歳のときに描いた本図はとくにすぐれた作品であり、淡墨・淡彩を基調とする安定した画面構成、紅葉や寺院、さまざまな人物、牛馬、鳥などの細やかな点景描写が,繊細で叙情をたたえた絵画空間を生み出している。 |