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長沢 蘆雪
NAGASAWA Rosetsu

1754-1799(宝暦4-寛政11)

1754(宝暦4)年-1799(寛政11)年 丹波篠山藩士から山城淀藩士となった上杉彦右衛門の子として生まれる。当時の京都画壇の中心的存在であった円山応挙に入門、穏やかな師の画風とは異なる、機知にあふれた鋭い個性的表現によって、多くの門人のなかで異才を示し、頭角をあらわした。 天明6年(1786)冬以降、南紀(和歌山県)の諸寺院(無量寺・草堂寺など)の障壁画制作を師に代わって遂行。その大胆な画面構成、奔放な筆づかいなどは特筆される。その後、島根県西光寺、奈良薬師寺、豊橋市正宗寺など、数々の障壁画を制作した。寛政4年(1792)5月以後に右肩を欠失した氷形「魚」印は、制作年判定の指標となっている。落款書体も、その前後に行書から草書へと変化した。寛政6年冬、広島へ下向、≪宮島八景図≫画帖(個人蔵、重要文化財)などをのこし、翌7年、兵庫県大乗寺の障壁画を制作。46才のとき、大阪で客死した。 晩年の≪海浜奇勝図屏風≫(メトロポリタン美術館蔵)、≪赤壁図屏風≫(個人蔵)などには、自由な主題解釈、さまざまな造形の実験が見られ、独自の生命感あふれる表現をしめしている。個性的画家として、評価は近年とみに高まっている。


牡丹孔雀図

牡丹孔雀図

1793-99(寛政5-11)年
絹本着色 掛幅装 185.0×97.0cm
昭和62年度購入

牡丹と孔雀、華麗さをほこる花と鳥の代表を組合わせリアルに再現する。この主題は、旧円満院画(萬野美術館蔵)をはじめとする応挙の画にはじまり、円山四条派の好画題となった。蘆雪は、応挙の孔雀図を二十代後半に忠実に模写している。
蘆雪四十代初の制作と推定される本図も、そうした応挙学習が基礎にあることはいうまでもない。しかし本図は静的な応挙画とは対照的に動的であり、この点、蘆雪独自の絵画に発展している。たとえば、孔雀の羽根にかすれた墨線をそのまま残し、玉模様を意識的に変形させ、岩の描写には、蘆雪独特の水墨のにじみを生かした表現を見せている。こうした特異な形態感覚が画面全体に波及し、動感をもたらしているのである。 また、蘆雪の旺盛な好奇心が、本図の様々なモチーフを取り込ませていることも見逃せない。孔雀と牡丹以外に、キンケイ・文鳥・雀・ハッカ鳥・野バラ、空中や花にモンシロチョウ、さらに注意しないと見過ごしてしまうが、地面や花弁に米粒ほどの大きさでアリやクモまでを描いているのである。蘆雪晩年の秀作である。
なお、類似の図様をもち本図より小振りな同主題画が逸翁美術館(大阪府)に所蔵されているが、そこにはアリやクモは描かれていない。また、本図を下敷にして描かれた八田古秀(伝記不明、蘆雪系の画人と想定されている)画が知られている。(Yy)


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