1801-1854(享和1-嘉永7)
江戸後期の文人画家。江戸に幕府槍組同心の子として生まれる。名は弼、字は篤甫。椿山のほか、琢華堂・休庵などと号した。幼くして父を亡くし、父と同じく幕府槍組同心を勤めたが、のち職を辞し、画業、学問に励んだという。また武術にすぐれ、煎茶などへの造詣も深かったと伝える。画ははじめ谷文晁門下の金子金陵に学び、のち同門の渡辺崋山に師事し大きな影響を受けた。また谷文晁にも教えを受けたという。温和で忠義に篤い人柄であったこともあり、崋山に深く信頼され、その高弟として活躍した。羊山の入牢・蟄居の際にはその救済に尽力し、華山没後は献身的に遺族の世話をしたことでも知られている。崋山門のなかでとりわけ花鳥、花卉図を得意とした椿山は、とくに中国明末清初の画家(うんなんでん)(1633‐90)の画法をよく学び、没骨の描写による淡彩の花卉図を多く残した。写生と装飾性を調和させた独自のスタイルを確立しその後の画壇にも影響を与えた。 |
花卉図 1844(天保15)年 |
水仙・菊・牡丹などの様々な花を、写生を基にした堅実な描写で描く。椿山44歳のときの作品。水墨を基調にした描写であるが、所々に効果的に淡彩を施している。そこには椿山特右の軽やかな色彩感覚がうかがわれる。花や葉の描写をみると、輪郭線を省いた没骨描法が用いられ、より一層典雅な趣を高めている。この描法は中国・明末清初の画家(うんなんでん)が得意としたもので、椿山はその技法を巧みに取り入れている。 |