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菊池 容斎
KIKUCHI Yosai

1788-1878(天明8-明治11)

江戸に幕府の御徒の子として生まれる。名は武保。通称量平。15歳から24年間、西丸御徒として士官した。18歳のとき狩野派の高田円乗に絵を学んだ後、諸派を研讃したようであるが、詳しい画歴は不明。38歳のとき御徒を退き、以後は画業に専念、歴史人物画を得意とした。国学に明るく、謹王の志が篤かった彼は、また有職故実の研究でも知られ、諸書から史実を調べ、服飾や調度を考証し、京畿を漫遊して古刹を訪ね、名家の図書や古器を写生して歩くなど努力を重ねた。その成果は、上古から中世にいたる、500人以上の賢君、忠臣を集め、図と略伝を付した『前賢故実』(明治元年刊行)として結実した。有職故実への知識は絵画制作にも生かされ、歴史を題材にした絵画に新生面を開いた。明治8(1875)年には明治天皇より「日本画士」の称号を受け、明治10(1877)年第一回内国勧業博覧会に≪前賢故実ノ図≫を出品し、名誉龍門賞を受賞するなど、明治前期の画壇で歴史画の重鎮として重要な位置を占めた。門人に松本楓湖、渡辺省亭がいる。


蒙古襲来之図

蒙古襲来之図

1862(文久2)年
絹本淡彩 掛幅装 161.2×83.2cm
昭和62年度 山下一郎氏寄贈

「元寇」として知られる鎌倉時代の「文永の役」「弘安の役」に取材した作品。この二度の戦役でともに大風がおこって蒙古(元)の軍船を沈没させたことは、あまりにも有名である。本図はまさにその劇的場面をとらえた作品で、空には暗雲が立ちこめ、松林が激しい風にあおられる中、様々な甲冑をまとった軍兵たちが、岸辺から沈みゆく船を見守っている。容斎は空、波、松を巧みな筆さばきで描き分け、この劇的場面を盛り上けている。
「元寇」を絵画化した作品としてすぐに思いうかぶのは、≪蒙古襲来絵巻≫(1293・御物)であるが、それ以降画題としては取り上げられることは決して多くなかった。容斎があえてこの題材に取り組んだのは、当時の西欧列強による対外危機をふまえ、攘夷思想の高揚を促そうとしたためとも考えられている。なお、容斎は本作品制作の15年前の弘化4年(1847)にすでに≪蒙古襲来図≫(束京国立博物館蔵)を描いているが、本図ではそれを精緻な筆致で推し進め、絵画作品としての質を高めている。容斎代表作のひとつである。(Im)


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