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狩野 永岳
KANO Eigaku

1790-1867(寛政2-慶応3)

狩野山楽・山雪にはじまる京狩野家の第9代で、上方を活躍の場とした。第8代永俊の養子となり、文政13年(1830)跡目を継ぐ。弘化3年(1846)、禁裏御内御医次席の絵師を仰せつかった。皇室のほか、九条家・紀州徳川家・彦根井伊家などの画作を行なっており、とくに「桜田門外の変」直前の井伊直弼像を描いたことなど、彦根藩の重用が注目される。 その画風について、着色画では、奇矯な形態感覚に、初期の京狩野とくに山雪画への回帰がうかがわれ、水墨画には、江戸後期文人画の影響がみとめられる。永敬以降、新たな画風展開をもてずに低迷していた京狩野を活性化し、ゆたかな個性を発揮した絵師として近年とみに注目されている。なお、復古大和絵の代表的絵師である冷泉為恭は、永岳の弟永泰の三男にあたり、狩野派と復古大和絵との接点に位置する絵師としても重要である。 遺作として、当館蔵品以外に妙心寺隣華院や法光寺宝喜院、大通寺の障壁画などが知られる。


富士山登龍図

富士山登龍図

1852(嘉永5)年
絹本墨画 掛幅装 179.0×87.0cm
昭和63年度購入

龍が風雲を呼び、海かち富士へと急上昇する。本図は、箱と軸芯の墨書銘から、嘉永5年(1852)に永岳が、やがて幕府大老となる彦根藩主=井伊直弼の御前で揮亳したものと判明する。この時期、永岳は「富士百幅」制作を試み、集中的に数多くの富士図を制作したが、本図も、そうした永岳の富士図への著しい関心と密接に関わるものと考えられる。
「富士登龍」という主題は、江戸初期にさかのぽり、石川丈山は、龍により富士山の神秘性を象徴した詩をつくり狩野探幽はそのイメージを絵画化している。その後、岸駒や谷文晁・葛飾北斎・鈴木其一など、さまざまな画人がこの主題をとりあげている。一連の図のなかで、本図における、ぼかしを多用した画面いっぱいにたちこめる暗雲は、とりわけ不気味なムードを漂わせている。これは、時代のムード、つまり幕末期における世情の喧燥や不安と重なり合うものである。永岳は、富士の神秘性を表わすこの主題をつうじ、そうした時代のムードを表わしたのにちがいない。本図には、他の画にない生々しさ、ある種の切迫感が漂っているが、これは永岳が時代の流れに直接関わる井伊家に仕え、敏感に反応できる位置にいたからと考えられる。本図の図様は、ちょうど100年後に制作された横山大観の≪或る日の太平洋≫(1952年作)と酷似している。日米関係の緊張という両者の時代が似かよう点は、実に興味深い。
なお当館は、本図以外に金地濃彩の永岳作品として≪三十六歌仙歌意図屏風≫六曲一双を収蔵している。(Yy)


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