1721-1780(亨保6-安永9)
江戸時代から昭和の初期まで京都に続いた、狩野派の画系につながる山本家の五代目の絵師。 相見香雨氏の研究(「山本素軒並に山本家の歴代を録す」『日本美術協会報告』59号 昭和16年6月)によれば、山本家の絵師のうち、初代の宗泉については不詳であるものの、二代の素程と三代の素軒はともに狩野探幽に学び、とくに素軒については、宮中や公家の画用をつとめ、また光琳が若い時に師事したことが知られている。 また四代の宗川は、法橋・法眼となり、養父の跡をついで宮中の用をつとめているが、件の五代の探川(宗川の養子)は、同じく法橋・法眼となっているものの、その画業は不詳である。 六代の守礼・七代の規礼は、ともに円山応挙に学んでいる。 このように山本家は、京都のそれぞれの時代の主要な画派や絵師と関係をもつことによってながく続いてきた画派であるが、探川をふくむ各絵師の作風の検討はいまだ十分でなく、今後、それぞれの絵師の作品の発掘と研究の積み重ねをとおしての、江戸絵画史上の位置付けが求められている。 |
宇津の山図 1755-69(宝暦5-明和6)年 |
平安時代を代表する歌物語『伊勢物語』第九段の「東下り」に登場する、駿河の国にある峠で、東海道屈指の隘路(あいろ)である宇津の山を描いた作品。物語は次のとおり。−−主人公の都の貴族(在原業平と目される)が旅の途中、従者たちと駿河の国の宇津の山まで来たものの、そこからの山道は暗く険しい上に、蔦や楓が茂って心細い限りだった。しかしそこで以前都で見知っていた修行者と出会い、「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」と言う和歌を、都にのこしてきた恋人に届けてくれるように託して別れた。 この物語は多くの絵画作品の主題となるが、中世までの作品においては、宇津の山の難路そのものが画面の主軸となっていたものの、伊年印≪蔦の細道図≫(萬野記念文化財団)や深江芦舟筆≪蔦の細道図≫(東京国立博物館)などに代表されるように、近世以降は、琳派の絵師たちによって、「蔦」を主要モティーフとした、鮮やかな秋の景として描かれるようになった。 |