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狩野 山雪
KANO Sansetu

1590-1651(天正18-慶安4)

千賀道元の子として九州肥前国に生れ、父とともに大坂へ移住。慶長10年(1605)、狩野山楽の門人となり、やがてその娘と結婚し養子となった。元和から寛永前半は、山楽の助手としての大坂城や二条城障壁画制作などの参加が想定される。寛永8年(1631)、山楽の指導を受けながら制作された天球院方丈画(現存、重要文化財)では、主力となって活躍。同12年、山楽没によって後を嗣ぎ、いわゆる京狩野の第2代となった。以後、諸寺院の画作や、林家聖堂のための≪歴聖大儒像≫(現存)制作などの活躍が認められる一方、探幽ら江戸狩野の繁栄のかげで狩野派内での孤立化が進行した。正保4年(1647)、法橋に叙されたが、2年後、なんらかの疑いを着せられ投獄されている。その2年後に没。 山雪は、日本絵画史研究の基本的文献として有名な『本朝画史』の草稿(山雪没後に子の永納が編纂して刊行)をつくり、蔵書家であったことなど学者的資質を持つ画人であった。その制作態度や蛇足軒・桃源子の号など、文人画家的ともいうべき傾向が認められる。画は、形態の執拗な追求、意匠性のつよい造形など、きわめて特異な様相をしめしており、若沖や蕭白など個性的画家の先駆としても評価されている。


 
富士三保松原図(左隻) 富士三保松原図(右隻)
 

富士三保松原図

17世紀前半(江戸初期)
紙本墨画金泥引 六曲一双屏風
(各)153.5×360.0cm
昭和56年度購入

駿河湾ごしに富士山と三保松原をのぞむ景観。富士の稜線ぞい右隻の連山は愛鷹山(あしたかやま)、左隻近景は清見寺(せいけんじ)と門前、右隻近景の砂嘴は三保松原であり、伝行舟筆の大幅(永青文庫蔵)の図様を継承した作品である。
本図の特徴は、幾何学的な構図と装飾性のつよい描写にある。左隻では、画面を上下に二等分割して富士と清見寺を対置し、富士の稜線と近景のしめす弧線とを平行に対応させ、また、右隻では上下左右に四等分した画面上、愛鷹山を左上、右下に三保松原を水平に描いて平行に対応させている。こうした幾何学的な構図が整然とした意匠美をうみだし、松樹の垂直線、愛鷹山の尾根に顕著な「へ」の字型といった同形の反復、白黒のコントラストの強調が装飾効果をあげている。本図の山雪様式はこの点に頭著だが、さらに注目すぺきは、臥龍梅(がりょうばい)をふくむ清見寺伽藍の明解かつ時世粧(じせいしょう)による表現であり、山間に暗示的に寺院を描く他作家との違いをしめす。清見寺のまさに門前部分、「山書始図之」(山雪はじめてこれを図す)という珍しい落款は、本図が従来にない新図様であることをことさら表したものと考えられ、作者の文人的性格と関連づけられる。
なお、山雪は法橋(ほっきょう)叙任の御礼として宮廷に同画題の屏風を贈っており、京狩野家に伝来するその下絵、さらにもう一例屏風(個人蔵)が伝存し当館蔵本をふくめ三者は相似る。これら三本は当館蔵本一個人蔵本一下絵の順に様式変遷をたどることができる。(Yy)                           


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