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海北 友松
KAIHO Yusho

1533-1615(天文3-慶長20)

狩野永徳・長谷川等伯・雲谷等顔と並ぶ桃山時代画壇の巨匠。 浅井家重臣の海北善右衛門綱親の五男(あるいは三男)として、近江(滋賀県)に生まれる。戦国の動乱で幼くして京都善福寺に入り、浅井家滅亡の難を免れ、禅林に過ごす。40才代で還俗、海北家再興を志して武道に励んだが、文禄年間(1592-96)より、画人として本格的活動に入った。つまり画人としての旅立ちは60才代からと遅い。 師については、狩野元信・狩野永徳の二説があるが、その画風は狩野派にとどまらず、中国宋元画への直接的な学習を通した個性的なもので、すぐれた水墨技法により武人らしいはげしい気迫のこもった画を描き、豊かな情感を表現した。ダイナミックな画面構成、対象を球状・円筒状に表わす形態感覚は特徴的である。子の友雪以降、江戸時代を通じて海北派が形成されたが、友雪以降は職業画家化し、友松とは異なる画風へと変貌している。 遺作は多く、慶長4(1599)年の京都建仁寺方丈の襖絵(重要文化財)をはじめ、≪山水図屏風≫(東京国立博物館蔵・MOA美術館蔵など、重要文化財)、≪飲中八仙図屏風≫(京都国立博物館蔵)、≪網干図屏風≫(御物)などが著名である。晩年は公家・禅憎と交わり、多くの水墨押絵貼屏風を制作している。


 
禅宗祖師・散聖図 禅宗祖師・散聖図
 

禅宗祖師・散聖図

1613(慶長18)年
紙本墨画 六曲一双押絵貼屏風
(各図)107.2×51.5cm
昭和56年度購入

本屏風は、各扇1面ずつ独立した画を貼り付けた押絵貼形式で12図よりなる。達磨大師に始まる禅宗の祖師中、二祖・六祖と中国の高僧、さらに散聖(正当な法系に属さない禅僧)の故事をそれぞれ絵画化している。故事は、一匹の猫をめぐって争う僧徒を戒めるべく、その猫を切断したという中国唐代の名僧、南泉普願(なんせんふがん)の説話(南泉斬猫(ざんみょう))などである。
濃淡の簡略な筆(線)とにじみを生かした墨(面)によって、ふくらみのある人体のフォルムが捉えられている。これは友松が得意としたスタイルで、中国南宋中期(13世紀前半)の画院画家として有名な梁楷の減筆体(少ない筆数で人物を的確にとらえ描写)に基づくものである。画面全体の淡い墨調からは心地よい情感が伝わってくる。
友松には、押絵貼による同種の禅宗故事図が他に数例知られるが、本屏風の場合、図上の画賛がとくに重要な意味をもっている。同賛は、京都妙心寺80世・静岡臨済寺4世を務めた学僧鉄山宗鈍(そうどん)による。鉄山が慶長18年(1613)、武将山名禅高のために書したもので、同年は友松81歳、本図は彼の最晩年の作である。制作依頼者、制作年、制作目的などが判明する貴重な作品といえよう。(Yy)                           


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