1828-1888〈文政11-明治21)
長府藩(山口県下関)御用絵師の家に生まれる。19歳のころ上京、橋本稚邦と同日(弘化3・1846年4月18日)に奥絵師木挽町狩野の晴川院養信(1796‐1846)に入門、晴川院を嗣いだ勝川院雅信(1823‐80)のもとで活躍、塾頭にまでなった。しかし、江戸幕府崩壊・明治維新によって定職を失ってしまい、生活苦とたたかうことになる。 明治12年(1879)頃より島津公爵家の庇護をうけ、生活はようやく安定、同家所蔵の雪舟・雪村などの古画を学んだ。明治15年(1882)、第1回内国共進会に出品した≪山水図≫≪布袋図≫など8点は、受賞の対象外で嘲笑的な批評をあびたが、当時、沈滞していた日本画の復興運動を指導するフェノロサがその個性を認め、以降、フェノロサ・岡倉天心らとともに、伝統に根ざしての日本画の近代化を推進していった。明治21年(1888)、尽カした東京美術学校の開校(翌年)を見ずに没した。遺作として、≪悲母観音≫≪不動明王≫≪大鷲≫(いずれも東京芸術大学蔵・前二者が重要文化財)≪仁王捉鬼図≫などが有名である。 |
寿老人図 1881-85(明治14-18)年頃 |
異常に細長い指と爪をもち、眼光の鋭いやせ衰えた老人が、コウモリ飛ぶ暗闇と松竹梅(歳寒三友)に囲まれ、一種異様な雰囲気をただよわせている。寿老人は中国の仙人で、北宋末の道士または、南極星の化身といわれ、呪術をあやつった神秘的な存在であり、本図では、近世一般に描かれる「七福神」のめでたい福の神としてではなく、そうした本来の姿に描かれている。 |