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石田 幽汀
ISHIDA Yutei

1721-1786(享保6-天明6)

播州明石郡西浦辺組西岡村(現、明石市魚住町)に橘七衛門の子として生まれる。名を守直といい、幽汀と号した。京都の石田半右衛門の養子となる。狩野探幽の流れをくむ鶴沢探鯨に絵を学んだが、琳派風の豊かな装飾性と写生的感覚を融合した、濃彩緻密な画風を得意とした。禁裏絵師となり、法橋、さらに法眼に叙せられている。代表作に三時知恩院の《花卉図屏風》、醍醐寺三宝院襖絵《葵祭図》《蘇鉄図》などがある。円山応挙の最初の師としても有名であるが、さらに門下には田中訥言、原在中がいる。探幽を中心に江戸初期、一世を風靡した江戸狩野と、写生画派・装飾画派をはじめ多様な展開をみせる江戸中期の京都画壇の間をつなぐ絵師として注目される。天明6(1786)年、郷里播州明石で没した。


 
群鶴図(左隻)群鶴図(右隻)
   

群鶴図

18世紀(江戸時代中期)
紙本金地着色 六曲一双屏風
(各)156.0×362.6cm
昭和57年度購入

六曲一双の大画面に様々な姿態を取る鶴の一群を描く。羽を広げたものや閉じたもの、首をのばしたものや曲げたものなど様々なポーズの鶴が、リズミカルに配置されている。仔細に見ると鶴の羽毛など緻密に描かれており、姿態の把握とともに対象に対する写実的な目がそこには生かされている。また、画面全体には装飾性が色濃くあらわれている。このように写実による堅実な手法によりながらも、華やかな装飾性を具えているのが幽汀の画風の特徴で、本図においてもその特徴がよく示されている。幽汀の画風は琳派の渡辺始興や弟子の円山応挙などと通じるところがあり、江戸中期の京都画壇形成を考える上で興味深い。なお、各隻に「法橋幽汀筆」とあり、幽汀が法橋に叙せられていた時の作であることがわかる。 (I)                    


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