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難波田 龍起
NAMBATA Tatsuoki

1905-1997(明治38-平成9)

北海道旭川に生まれる。翌年上京し、本郷に住む。再度の引っ越しで高村光太郎のアトリエの裏隣に住むことになり、高村に触発された古代ギリシャへの憧憬は、難波田の絵画に大きな影響を与えた。1927(昭和2)年、早稲田大学を中退し太平洋画会研究所で絵の勉強を始める。本郷絵画研究所に入所するがまもなく退所。高村の紹介で川島理一郎を知り、金曜会に入る。l929年第4回国画会展に出品、初入選。この頃セザンヌ、ルドンに傾倒する。1935(昭和10)年国画会を退会し、金曜会の仲間と「フォルム」を結成。古代ギリシャへの幻想を込めた作品を制作しはじめる。1937年自由美術家協会創立に参加。1942年青樹社画廊で初個展を開く。戦時中には埴輪や富士山といったモティーフを描き、古代西洋を古代日本に替えて、自己の幻想を求めていった。1947(昭和22)年日本アンデパンダン展出品。1950年代には抽象芸術への道を進み、1951年の第15回自由美術展にキュービスティックな作品を出品している。1956年、アンフォルメルと出会う。交錯する直線と色面による、激しい躍動感を持ちつつも心理的空間を持った独自の世界から、1960年代にはドリッピングなどによる作品制作へとつながっていった。1970(昭和45)年の第7画廊の個展を期に、オートマティックな曲線から直線が復活し、70年代後半には、生命への敬虔な思いや宇宙的な広がりと古代ギリシアへの憧憬を一つに統合した世界を作りあげた。その後も積極的な制作を続け、1994年には世田谷美術館で、この展覧会のための大型の新制作品≪わが生の記録≫を含む、1954年以降の作品を集めた大規模な回顧展が開催されている。


ミクロの世界

1966(昭和41)年
油彩・エナメル,キャンヴァス 
162.1×130.3cm
平成6年度購入 

セザンヌ、ルドンへの傾倒からモンドリアン的な抽象の方法を経て、正統的な抽象の理解をたどったとされる難波田の抽象の特徴は、それが常に有機的生命の不可思議な震えを筆触に含んでいることにある。
1960年代の難波田は、ドリッピングの技法を用いて独特の世界を築いている。50年代に自らの抽象のあり方を探り、交錯する斜線による構成から曲線の重なり合いへと進み、60年代には人の心の中に存在する形にならない有機的イメージを、オートマティックな線と色彩で画面に形象化した。
それは具体的形態から抽象ではなく、純粋に何物にもよらない抽象であり、「内部生命の律動感」をこそ表出するものであった。本作もそのような作品の一点であり、画面を支配する青灰色は、この時期以来彼の基調色の一つとなるもので、生命の誕生の瞬間を連想させるような、力強く制御し難い宇宙的な力学関係に支配された作品である。(L)


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