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パウル・クレー
Paul KLEE

1879-1940

スイスのベルン近郊ミュンヘンブーフゼーに生まれる。音楽と絵画の選択に迷いながらも絵画を志し、1898年ミュンヘン美術アカデミーに入学。1901年までシュトゥックに師事。イタリア旅行後、ベルンに戻る。1903年頃から線描や銅版画によるカリカチュア的人間像を中心に制作。1906年、結婚を機にミュンヘンに移った。1911年青騎士を設立するカンディンスキーらと親交を結び、第2回グループ展に参加。1912年にパリを旅行し、ドローネーを訪問。キュビスムなどの絵画動向にも触れた。1914年チュニジアを旅行、水彩画を通じて色彩表現を迫求し、以後、抽象的な色面の組み立てと記号的表現の統合という独自の画法を進展させた。1919年、画商ゴルツによる展覧会で国際的な名声を得た。1921年、グロピウスに招かれてヴァイマールのバウハウスの教員となり、26年にデッサウに移った。1924年ニューヨークでの個展、29年ベルリンのフレヒトハイム画廊での個展、30年ニューヨーク近代美術館での個展を経て、国際的な評価を高めた。1931年、デュッセルドルフ美術アカデミーに迎えられたが、ナチスの迫害により、33年4月に同校を退職、12月にベルンへ亡命した。36年には皮膚硬化症で制作を中断したものの、37年以降には簡潔で力強い描線の様式を展開し、ロカルノ近郊で亡くなるまで旺盛に制作を続けた。美術教育の面でも今日に影響を及ぼし、『現代美術について』、『造形思考』などの著書が残っている。。


ホールC.エントランスR2

1920年
油彩,板 20.0×45cm
平成7年度購入

1916年からドイツ軍として兵役に就いていたクレーは、18年の末にミュンへンの家族のもとに戻り、19年2月に同地にアトリエを借りた。当時のドイツは第一次大戦の敗戦と革命の動乱のさなかにあったが、8月にはヴァイマール共和国が成立し、政治的な混乱は終息する。
1914年のチュニジア旅行以来、クレーは、多数の色彩豊かな水彩画を制作してきた。クレーは色彩については水彩を通じて表現してきたが、1919年になると油彩も用いるようになり、本作が描かれた20年代の前半には、こうした水彩画の延長線上にある「方形色面の絵画」「色彩の段階付け」「平行線のコンフィギュレーション」「記号絵画」「油彩素描絵画」が制作された。本作はこの時期の特徴をよく示す作例で、画面全体にめぐらされた格子と、その間を満たす透明感のある色彩が、建物に不思議な空間感覚を与えている。本作が描かれた年の終わりに、クレーはグロピウスによるバウハウスへの招聘を承諾し、翌年教員に就任した。
クレーは1907年頃から、自分の作品に各年度別の通し番号を付けはじめた。本作の画面右下の数字は、1920年の29番目の作品であることを示している。本作と同様に、線で建物の構造を表した類作である28番目の作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている。(Is)


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