1926-1992
シカゴに生まれる。父は美術を愛する医学界の名士、母はT.S.エリオットやE.パウンドを世に出した『詩』誌の編集者で詩人。幼少期から美術とスポーツに親しむ。自由な校風のF.W.パーカー校を経てスミス・カレッジに学び、1944年より奨学金を得てシカゴ・アート・インスティテュートに学ぶ。1948-49年、奨学金によりパリに滞在、病を得たがパーカー校時代の旧友と結婚しニューヨークに帰った。1950年秋ミネソタで最初の個展、F.クライン、デ・クーニングらと交友する。翌年離婚、八番街アートクラブの会員に推される。1955年パリを再訪、後に夫となるジャン=ポール・リオペルを知り、パリにもアトリエを持った。1957年以降、フランケンサーラーらとともに「抽象表現主義の第2世代の画家」と評されるようになる。1959年より専らパリで制作。1967年に母が没するが、その遺産でかつてモネが住んだヴェトゥイユに土地を求め、翌年から定住。広壮なアトリエを得、やがてポリプティック絵画に専念していく。1974年ホイットニー美術館でヴェトゥイユにおける作品による個展。オール・オーヴァー絵画に焦点を絞っていく。1979年リオペルと別れる。1982年パリ市立近代美術館でアメリカの女流画家として最初の個展を開いた。1984年より癌に苦しむ。1988年シカゴ・アート・インスティテュート名誉博士号、翌年フランス絵画国家大賞、1991年パリ市芸術大賞を受けた。1989年、ニューヨークのロバート・ミラー画廊で最初の個展、以後同画廊はミッチェル紹介に努めることとなる。肺癌によりパリの病院に没するが、その最期まで旺盛な制作欲をみせた。 |
湖 1954年 |
ジョアン・ミッチェルの幼少期、彼女はシカゴの自宅の窓からいつもミシガン湖に眺め入ったものである。湖面は空や雲や光を映して穏やかに揺れ動き、嵐の時には風雨をうけて猛り、或るいは曇天下には死んだように沈黙する。そうした湖水の多様な表情がやがて彼女の原風景を形づくった。作者はそれを記憶の内にたたみ、記憶像として純化された水のイメージに折々の心象を託して描くようになる。ミッチェルの抽象表現主義が激しい表出性を含みながら、内的に制御された構成力に優れるのはそのためであろう。 |