1830-1903
デンマーク領西インド諸島サン・トマ島の生まれ。フランス系ユダヤ人の子。1855年パリに出てエコール・デ・ボザールに入学。コローの影響を受ける。1859年風景画がサロンに初入選。この頃よりアカデミー・シュイスに通い始め、モネやセザンヌらと知り合い、印象派における中心的存在となる。1874年第1回印象派展に参加。以後、1886年までの計8回に及ぶ印象派展すべてに出品し続けた唯一の人物であった。普仏戦争を逃れて避難したロンドン郊外や、帰国後移り住んだルヴシェンヌやポントワーズにおいて、農村の風景や人物をモティーフに制作。1880年代には点描画法を採用。晩年には、パリの俯瞰的な都市風景を描く。堅固な構成と情趣に富む作品が多い。ピサロは印象派の中での有能な教育者であり、多くの画家の模範であった。セザンヌやゴーギャンは彼を称える言葉を残している。パリにて没。 |
ライ麦畑、グラット=コックの丘、ポントワーズ 1877年 |
カミーユ・ピサロは、日常的風景の賛美者である。彼の作品には、一貫して自然に対する素直さや率直さがにじみ出ており、平俗な美へのリアリズムがあふれている。そうした彼の画業全体に通じる特質が、我々に親しみやすさや近づきやすさを感じさせる要因であろう。本作もその例外ではない。1860年代後半と1872年から居を構えた、パリ近郊イル・ド・フランズ地方のポントワーズの情景である。画面は手前から麦畑、丘、空に3分割されている。前景と中景との境界線は、右下から左上へと緩やかにカーブしており、その先に描かれているポプラの木が画面を引き締めている。印象派の長老であったピサロは、常に勤勉な芸術家であり、自己の芸術的欲求を満足させるために絶え間なく技巧を変化させた。本作が制作された時期を、美術史家ヴェントゥーリは「印象主義の開花」と規定した戸外の光。新鮮な色彩。色調の分割。時に規則的に、時に規制的に、時に無造作におかれたように見える変化に富んだタッチ。そうした、筆触の一つ一つが、堅固な画面を構成する要素となっている。地味な作風ながらも、精緻な制作ぶりと建築的な画面構成も、この頃のピサロの特色であると言えよう。(M) |
クリスマスの農家(オスニ) 1883年 |
ピサロが版画を制作するようになるのは1863年以降であり、以後晩年に至るまでに200点以上のプレートを制作している。絵画制作と同時に版画にも関心が高かった印象派の画家たちの中にあって、ピサロはとくに版画制作に積極的であったといえるだろう。ピサロの版画制作の上では、1879年にドガとともに銅版画を制作したことが表現の可能性を広げるきっかけとなった。ドガからエッチングやドライポイント、さまざまな材科を用いたアクアチントなどの技法を複雑に組み合わせる方法を学び、作品は異なった技法の微妙な濃淡の変化により表情豊かなものとなった。 |