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山口 長男
YAMAGUCHI Takeo

1902-1983(明治35-昭和58)

韓半島の独占支配をめぐって日露が激しく対立していた時期の京城(現在のソウル)に生まれた。父は朝鮮に渡って一代で大地主となった人物で、長男は尋常小学校、中学校を京城で終え、1921年に19歳で日本に来るまでを京城ですごした。19歳で上京し、本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事。川端画学校を経て1922(大正11)年東京美術学校西洋画科に入学。長原孝太郎、小林万吾、和田英作らに学び、1927(昭和2)年卒業。同年、同期生の荻須高徳とともにパリに渡る。在仏中の佐伯祐三の制作姿勢に強い影響を受け、またピカソ、ブラック、ザッキン等にも大きな刺激を受ける。1931(昭和26)年、日本経由で京城に帰り、自然を単純な形態と色面に還元しフォーヴ的性格をもった抽象的な作風の作品制作を開始する。この年以来、京城から二科展に出品を続けた。1938(昭和13)年、山口、吉原治良ら二科会の前衛的傾向の作家が集まって九室会を結成。1945年、補充兵として釜山近辺に配備となり、そこで終戦を迎える。二科展の再結成にあたり会員として参加し、1962年まで二科展出品を続ける。1946年に京城を引き上げて上京。1953年、日本アブストラクト・アート・クラブの創立に参加し、54年に会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。55年に第3回サンパウロ・ビエンナーレ、56年に第28回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表として出品、その後、グッゲンハイム賞美術展、チューリッヒ市立美術館の「現代日本の絵画展」など、国外での出品も広がる。
日本の抽象絵画の先駆的な開拓者の一人とされる、山口独自の抽象の世界は1950年代から顕著となり、黒の地色の上に黄土色または赤茶色の絵の具がかなり厚塗りされた作品を形成するに至る。色数の限定とともに、画面にあらわれる形態も、幾何学的な形の組み合わせから、より単純化された四角の色面が地色の上に重みを持って広がるものへと発展した。無味乾燥な幾何学的抽象ではない、独特な有機性を持った抽象絵画を確立した。


1968(昭和43)年
油彩,合板 182.2×182.2cm
昭和57年度購入 

正方形の合板の上に、黒と黄土色の絵の具を厚く塗り重ね、タッチの痕跡による段差が触覚を強く呼び起こしている。具体的なイメージや形は無く、かといってまた冷たく理知的に処理された幾何学的な抽象でもない。ペインティング・ナイフによって、ただ一色の絵の具が「ものを言う」まで、「もうこれ以上いかないというまで繰り返し、充実が出るまで塗」られた結果、その物質感は作家の内面の生で満たされ、作品という一つの確固とした世界にまで昇華されている。
山口が“性格色”と呼ぶ黄土色は、生まれ育った朝鮮や大陸を思わせる。黒系の地色に対して重ねちれる黄土色は1958年から次第に広い面積を占め、地の上の形から一つのマッスとして現前するようになった。更に黄土色は画面を押し広げるようにして外への力を強め、本作以降、黒い地が更に狭められて地とその上の形といった関係を超えてゆく。山口は、支持体と描かれるイメージという分離の関係も超越し、絵の具という物質がそれらを一体化した、「作品」を現前化させるという新たな絵画の世界を作り上げた。(L)


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