1855-1915(安政2-大正4)
洋風画家五姓田芳柳の次男として、江戸の有馬藩邸に生まれる。父は武士から商業に転じ、國芳一門の末流として浅草で油彩画を見世物にしたり、横浜で外人相手に写真風の肖像を絹本に描くことをなりわいとした。1865(慶応元)年12歳の時、ワーグマンの門に入り洋画の手ほどきを受けたが、その上達ぶりはワーグマンも驚くほどであった。ちなみにその入門は高僑由一より約半年早い。1876(明治9)年工部美術学校に入学、フォンタネージの指導を受けたが、すでに一家をなし、父の仕事を手伝う重要な人間になっていた彼にどれだけの受容力かあったのかは疑問である。同窓には山本芳翠、浅井忠、小山正太郎などがいた。その彼の技量を買った宮内省が、孝明天皇の肖像画や明治天皇の巡幸図などを彼に描かせたのもこの頃である。1880(明治13)年25歳にして宿望のパリ留学を果たす。ヨーロッパへ向かう船には、百武兼行、松岡壽(ひさし)がいた。美術館での模写を重ね、翌年レオン・ボナの門をたたき、その年のサロンでは水彩画により日本人でははじめての入選を果たしている。その後も幾度か入選を得ているが、絵画が技術だけで成り立つものなのではないことを、おびただしいアカデミー絵画群を前に厳しく迫られたであろう彼は、次第に酒に弱れ奇行に走っていった。アメリカを経由して日本に帰りついた時には、すでに8年の歳月が流れ、その混乱を解決する術をおそらく持たなかった彼には、以降期待されたほどの仕事をすることは最早かなわなかった。横浜で没す。年60歳。 |
富士 1905(明治38)年 |
本図は日本平の東の麓より三保松原、駿河湾をとおして富士を遠望した図である。左端あたりに清水港、その沖に蒸気船が見え、湾内には白帆をあげた舟が多く浮かんでいる。対岸の興津や薩きった峠も指呼の間にある。この景勝の地は昔より有名であり、室町時代の伝雪舟≪富士三保松原図≫が残されているのをはじめ、探幽も江漢もこの地を訪れた。また滝沢馬琴はこの地からみる富士を絶賛している(「玄同放言」)。義松が同地を訪れたのは1903(明治36)年、すなわち残された日記によれば、(月不明)「四日晴(中略)束海江尻駅ニテ下車シ直二腕車二打乗清水港ヨリ富士見村ヘ赴キ鹿島氏所有ノ岡ヨリ富岳及ヒ三保ノ全景ヲ写シ浦水二帰り梅本ヘ一泊ス/五日早朝ヨリ前期ノ場所ヘ徒歩シ前日写懸ノ写生ヲ終リ江尻ヘ帰リ午後六時二十過ノ汽車ニテ(後略)」とあり、たっぷり2日かけて丹念にこの地から見える風景を写し取ったのがわかる。その結実が茨城県立美術博物館蔵の≪富士遠望図≫(明治36)であり、本図である。技術的には全く破綻のない、完壁な図であり、空気遠近法にも意を用い、畑や森、海と陸地、雲と空の諧調が美しく溶け合う。 横長の画面は彼がパノラマ画に興味を持っていた痕跡を示すものであろうか。性狷介といわれた義松が晩年にみせた日本画回帰がここに表れているとみてよいが、いやみのない恬淡としたそのテクニックはむしろ彼の持っている諦念をひそかに伝えるもののように思われる。義松の芸術埋解には欠かせない一図といえよう。(Oy) |