1886-1936(明治19-昭和11)
三島市に生まれる。韮山中学校から中央大学に進み、1907(明治40)年東京美術学校に入学。翌々年の第12回白馬会展にターナー趣味を示す≪月島の月≫が入選する。19l2(明治45)年渡英し、クローゼンに注目された。またレオナード・ヒルの愛顧を得、コートンやロートンでコンスタブルやバウルビゾン派風の自然観照にいそしむ。1914(大正3)年、松方コレクションの助言者ブラングィンの門に入り、1916(大正5)年には師の力動的な装飾的作風に日本趣味を加味した≪リッチモンド・ブリッジ≫を制作、リーズ大学の副総長ミヒャエル・サドラーに購入される。(現・同大学蔵)。同年ロンドンで個展。1919(大正8)年、英国王立美術家協会の準会員に推される。翌年以降、度々ヴェネッィアを訪ね、再びターナーを発展させた印象派的な作風を展開した。1924(大正13)年帰国し、白日会の結成に参加。英国画派の正統を伝える異色の画人として注目される。1926-27(大正15‐昭和2)年に再渡英。帰国後は東京・西荻窪にアトリエを構え、帝展出品を続けながら、1929(昭和4)年第一美術協会を創立、1933(昭和8)年には築地洋画研究所を設立して後進を指導した。1935(昭和10)年、海軍省の求めにより宮内省顕忠府に上海事変画6点を献上。翌年、ブラングィンの壁画に基づく≪歓楽の港≫を出品した直後、癌に冒され千葉医大病院で没する。1991(平成3)年、静岡県立美術館で大規模な回顧展が開催された。 |
セントポール 1916(大正5)年頃 |
テムズ川の南岸に繋留された2艘の荷船の間で、荷役人たちは荷積みと荷降ろしに余念がない。彼らの労働に和するように、橙色の帆が賑やかに翻り、サウスワーク・ブリッジの彼方にセント・ポール大聖堂が聳え、白雲が青空高く湧きあがる。この著名な聖堂に託して、作者はここで労働の聖化を絵画化しようと図ったのであろう。港湾労働者の躍動的な風俗表現は、1914(大正3)年の夏以来栗原が師事したブラングィンが得意としたところで、≪セントポール≫の構想も個々の描写も、この師の作風を抜きには考えにくい。帆を聳立させた荷船を前方正面から捉え、労働者群像をうねるように配する構図は、ブラングィンに数多いのである。渡英直後の栗原作品によく見られるように、ここでも画面は近景かち遠景までいくつかの平面層によって整合化されているが、他方作者は、彎曲する粗放な筆致と奔放にうごめく色彩で空間をブラングィン風に錯綜させ、そこに労働者のエネルギッシュな活力を孕ませている。だが白と青が爽やかに呼応するところなどには、ブラングィンにはない作者特有の詩的資質が窺われてよかろう。なおこの絵の素描習作2点が当館に収蔵されている。(S) |