1904-1970(明治37-昭和45)
鹿児島市に海産問屋を営む家の次男として生まれる。1921(大正10)年、上京して川端画学校に学び、古賀春江、中川紀元、矢部友衛、神原泰と交友。彼らの感化によりフランス留学を決意、1923(大正12)年、19歳で渡仏。パリで藤田嗣治に師事、親しく薫陶を受け、二科会へ作品を送るほか、同地のサロン・ドートンヌ等に出品。1927(昭和2)年頃には、エコール・ド・パリの次代の担い手と目される。1934(昭和9)年、空の鞄を抱えて帰国。美しいマチエールと抽象的かつ力動感に満ちた画面構成で日本の画壇に新風を送り込み、1935(昭和10)年独立美術協会会員となる。1945(昭和20)年熊本に疎開、1960(昭和35)年まで九州で後進を指導すると共に、孤独な思索を続けた。戦後の国内外の国際展に出品、浪漫に満ちた童話的詩情と強い画面構成の作風で好評を博し、1959(昭和24)年、第5回日本国際美術展最優秀賞受賞、次いで翌年第1回毎日芸術賞を受ける。1967(昭和42)年渡仏し、翌年藤田嗣治をスイスの病院に見舞い、その死まで看病。1970(昭和45)年、パリで客死。 |
かぜ 1954(昭和29)年 |
淡黄色の木の葉様のものが左上方から右下へと舞う黄土色の空間を背景に、それとは逆に衣服を右から左へと吹き流す三人の人物を描く。風をテーマとして象徴化して描くもので、背景、人物の衣服、人物の立つ色面分割された地面等の単純化された形態による画面には、ダイナミックな力動感と装飾的な効果が満ちている。熊本県人吉で、中央画壇から離れていた作者は《殉教者》《本を焼く人》といった社会的主題を持つ作品によって戦後海老原喜之助の変貌を印象づけたが、本作品は、《船を作る人》から《靴屋》へと通ずる超現実主義風の傾向の中に、骨太な造形性を失うことなく、自らの寂莫とした心象風景を詠じた一連の作品群を代表している。第1回現代日本美術展に出品された、戦後美術の一動向を今日に伝える作品である。(Ty) |