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クロード・モネ
Claude Monet

1840-1926

パリの食料雑貨商の家に生まれるが、すぐに家族でセーヌ河畔の町ル・アーヴルに移る。同地でデッサンの教育を受け、カリカチュア作家として生計を立てていた。ブータンに勧められ、外光のもとで制作するようになったモネは、本格的に画家の道に進むためにパリに出る。アカデミー・シュイス、続いてグレールのアトリエに通い、そこでピサロやルノワール、シスレー、バジルなど後の印象派の画家たちと出会い、交流を深める。1865年に初めてサロンに出品するが周囲の無理解と経済的困窮の中で苦悩の日々を送る。普仏戦争の間、単身ロンドンへ渡り、同地で画商デュラン=リュエルに出会ったこと、コンスタブルをはじめとしたイギリス絵画に接したことが、その後の画業に影響したと考えられる。オランダを経由しフランスに戻るが、その後はパリではなく、アルジャントゥイユやジヴェルニーなどセーヌ河畔の田舎町に制作の拠点を置くようになる。
うつろいやすい光や大気とそこに包まれた事物の描写を徹底して追求し、1874年に始まる印象派展開催に貢献するなど、印象派の中で中心的役割を果たし、1880年代以降には《エプト川の並木》《積み藁》《睡蓮》など重要な連作を次々と制作した。


ルーアンのセーヌ川

ルーアンのセーヌ川

1872年
油彩、キャンヴァス 49.2×76.2cm
昭和59年度購入

普仏戦争を避けて滞在していたイギリスからオランダを経由して帰ったモネは、1871年12月よりセーヌ河畔の町、アルジャントゥイユに居を構えた。同時期にル・アーブルやルーアンなど近隣の風景を描いている。
ルーアンはル・アーブルとパリのちょうど中間に位置し、パリの外港として発展した町である。ここで船から下ろされた荷物が陸路パリまで送られ、パリの市場を豊かに満たしていたのである。本作には一隻の帆船から荷物が運び出される情景が描かれており、当時の活気ある港の様子を伝えている。帆船の背後には、家々の間に大聖堂の尖塔がそびえ、右方にはサント・カトリーヌのなだらかな丘を望むことができる。この大聖堂については後年、モネがそのファザードを連作にしている。
明るい色調の絵具を薄く塗った空や水には、多くの塗り残しが見られ、自由な筆触とともに画面上に新鮮な効果を与えている。本作が制作された1872年は、第一回印象派展出品作で「印象派」の命名のもととなった《印象、日の出》が制作された年と重なり、これらの作品からは印象派確立期の革新的な息吹きを感じとることができる。(Oj)                   


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