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ハイム・スーチン
Chaim SOUTINE

1894-1943

リトアニアのミンスク近郊スミロヴィッチの貧しいユダヤ人の家庭に生まれる。11人兄弟の10番目。ヴィルナ芙術学校を経て、1913年パリに出、エコール・デ・ボザールでコルモンに学ぶが、すぐに退学。モンパルナスのアトリエ長屋「ラ・リューシュ(峰の巣)」に住み、アーキペンコ、パスキン、リブシッツ、モディリアーニらと親交を結ぶ。貧窮な生活を送りながら画商ズボロフスキーの援助を受け、1919‐22年、南仏のセレやカーニュに滞在、風景画を主として200点以上の絵を描き、烈しいデフォルメ、粗々しいタッチ、大胆な色彩による表現主義的なスタイルを確立した。これらはパリに戻った後、アメリカのコレクター、アルバート・バーンズに購入され、その名声が高まる。1925年より主題は風景から静物へと移行、レンブラントの影響を示す。1929年にはエリー・フォールがスーチンの最初のモノグラフを著した。第二次大戦中は内臓疾患の療養のためフランス中部を転々とし、恐怖に捉われながらナチスの目を逃れる。1943年胃潰瘍が悪化して、パリの病院にて没。エコール・ド・パリを代表する画家であるが、その作品は事物や空間の歪みと大胆な筆づかいによる画面のうねるような動勢を特徴としており、エコール・ド・パリ特有の憂愁を超えた、表現主義的な傾向が示されている。


カーニュ風景

1923年
油彩,キャンヴァス 60.0×72.4cm
昭和63年度購入

北方リトアニアの寒村の出であるスーチンほ、1913年憧れのパリに行き、エコール・ド・パリに属する異邦人仲間の悲痛な感受性に共感しながら、貧窮のうちに制作をつづけた。1918年、作者はモディリアーニの後を追って南仏に行き、かつてルノワールがアトリエを構えたカーニュを訪れる。1920-22年にはセレで描きながらカーニュを訪ね、1923年には2ヶ月滞在、1924・25年にも出かけて、多数のカーニュ風景を連作した。南仏の強い陽光が、北方人スーチンの狂おしい情熱を掻きたてたようで、黄色がファンファーレのように鳴りひびき、自然も建物も激しく渦をまいて歪む。だがそれは喜悦の表現というより、焦燥にかられた感情の爆発という方が適切だろう。南仏滞在中の1920年1月、作者は親友モディリアーニの死とその妻の自殺を聞いて世界を呪った。その嘆きの深さが、同場面を描いたオルセー美術館の作品をはじめとするカーニュ風景連作に特有な、表現主義的な作風をもたらしている。この絵が描かれた1923年、彼はカーニュから画商のズボロフスキーにあてて、この風景は我慢ならぬので立ち去りたいと書いている。カーニュに対するそうした憎愛のアンビバレンスゆえに、類ないパトスを放つ作品群が結実したのである。(S)


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