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田中 敦子
TANAKA Atsuko

1932-2005(昭和7-平成17)

大阪に生まれる。1950(昭和25)年楠蔭高等学校卒業後、京都市立絵画専門学校に学ぶが、中退。吉原治良に師事。1953-1955年頃は、布に数字を書き、一旦裁断し再びつなぐような作風。1954(昭和29)年「0会」展に出品。翌年「具体美術協会」に入会する。芦屋の野外展で黄色やピンクの布をぶらさげた作品を発表。続いて、電線でつながれた20個のベルが順次鳴る作品を作る。1956(昭和31)年の第2回具体展には、全面が色とりどりの電球と放電管、電気のコードで覆われた衣裳《電気服》を出品する。翌年には平面に、原色に塗った電球を並べて点滅させる大作を発表。その後、並列する多数の円を複雑にからまるカラフルなコードのような線が連結してゆくタブローのシリーズを手がけるようになる。円の大きさ、円の配置の疎密、円の色彩、コードと円の接触部などを変えることで様々なヴァリエーションが生まれた。ときには標的を思わせる原色で構成された同心円が現れ、大きな円がいくつかの小さな円を内包するパターンも出てくる。具体展には1965(昭和40)年の第15回まで出品。同年、アメリカの「日本の新しい絵画と彫刻展」に出品した作品が、ニューヨークの近代美術館のコレクションに入る。その後も円とコードのタブローの制作を持続したが、2005(平成17)年、肺炎のため死去。


1985A

1985(昭和60)年
油彩、キャンヴァス 130.0×218.5cm
平成1年度購入

原色で塗られた放電管とコードを取り付け、点滅させる《電気服》(1956年)に端を発するタブロー群の一つである。1957年にはすでに、電球を平面に並べて点滅させる作品を作って平面での解決へ向かおうとする兆しがみえていた。本作でも形態と色彩に関しては、全体に配された電球の光を表す鮮やかな色彩の同心円と、電気を運ぶ配線が画面構造の基本となっている。ただ、約30年間にわたって様々なヴァリエーションを経てきたこともあり、色彩の輪で囲まれた丸い余白のいくつかは色とりどりのコードの交差ポイントをなすなど、はじめの即物性からは離脱をとげている。にもかかわらず、画面中央部で白い地を背景に密集したコードの束は、人体の大動脈のように支配的な流れを作って、画面の各部へパワーを送り込み、“配線計画”を継承する要素となり得ている。なお、田中の円とコードのコンビネーションのもうひとつの根源であるベルの作品を重ね合わせてみることによって、瞬時にコードを伝わる電気によってそれぞれの円形から発せられる音の響きを考えることもできるだろう。電気の力を使った50年代の先駆的な造型の試みは、光の点滅や、音の連続と言う時間性の余韻を残しつつ平面に収斂されてゆく。(Ym)


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