1891-1980(明治24-昭和55)
横浜、御所山(現・西区御所山町)に生まれる。東京の麻布中学校を卒業の後、1911(明治44)年葵橋研究所に入り、黒田清輝に素描を学ぶ。翌年本郷洋画研究所に通い、藤島武二、岡田三郎助から油絵を学ぶ。この頃、山田耕筰や帝大、早稲田の文学青年達との交流から世紀末芸術や表現主義の絵画に関心を持ち、木版画、銅版画を試みる。1913(大正2)年日夏耿之助、堀口大学らの文芸同人誌『仮面』に参加。第1次世界大戦の終了を待ちかねるかのように1918(大正7)年暮、アメリカ経由で渡仏。17世紀にオランダで創始され、19世紀に写真の出現によって廃れてしまった銅版画技法マニエル・ノワール(メゾチント)を近代的表現で復活させて、銅版画家としての地歩を確立。1935(昭和10)年、レジョン・ドヌール勲章を受ける。終生フランスに在住し、フランスの芸術院会員として活躍する他、春陽会、日本版画協会に会員として出品した。1966(昭和41)年フランス文化勲章受章、翌年日本から勲三等瑞宝章を受けた。パリで死去、遺志により東京の青山墓地に葬られた。 |
南仏古村(ムーアン・サルトゥー) 1925(大正14)年 |
カンヌ北方の小村、ムーアン・サルトゥーに取材した、作者ごく初期のマニエール・ノワール(メゾチント)による作品。マニエール・ノワールとは、本来ベルソー(ロッカー)と呼ばれる道具で版面全体を微細な点状の傷で埋め尽くし、後その凹凸を部分的に磨いて微妙な諧調の明暗を創り出す銅版直刻法の一種。17世紀の発明以来絵画の複製手段として用いられて来たものの、写真の発明以降は殆ど顧みられなくなっていた。作者は、細粒点で版画を覆う代わりに、無数の密な平行線の交叉からなるクロスハッチングを用い複製の手段としてでない、表現内容にも直接関わる技法として、このマニエール・ノワールを復活させた。若干の不規則さを含んだその無機的な刻線の反復は、過度の厳格さを感じさせることなく、幾何学的美しさを持つ建物を配した厳密な構図の画面の中に、程よい統一感と清新な雰囲気を醸し出すことに成功している。静謐なモチーフ、厳格な構図と技法の内に自然界の秘められた摂理を追求する作者の、その特質を初期作ながらもよく示す秀作である。(Ty) |