1847-1915(弘化4-大正4)
幕府の本所米蔵役人の末子として江戸に生まれる。文久2(1862)年、父の死に伴い家督を相続、幕臣として維新の動乱に巻き込まれる。明治元年、主家(徳川家)に従って家族とともに静岡に移住した。清水、静岡に住んだ後、明治2年、新井関勤番組に勤めた。明治7年上京、下岡蓮杖について写真術を、英人ワーグマンに油絵を、次いで河鍋暁斎・柴田是真らに絵を学んだ。明治9年から14年の間に「光線画」と命名された新しい感覚の、光と影、光のゆらぎ、色彩の変化をリアルにこまかに捉えた版画をのこし、その名を高めた。新しい手法による木版の洋画ともいうべき「光線画」は、西洋文明の移入期にあって好感をもって迎えられた。代表作《東京名所図》のシリーズのほか、富士山や箱根を写した作品も知られている。そのほかキャンヴァスに描く油絵のタッチを木版で表現する静物画や、旺盛な風刺精神を駆使した錦絵漫画シリーズ《清親ポンチ》などにも力作が多い。 |
《東京名所図》 1876-81(明治9-14)年 |
《東京名所図》と総称されるこのシリーズは、明治9年から順次発表された。はじめの2作は、従来の浮世絵に近いものがあったが、以降の作品からは、西洋の遠近表現や明暗の対比を取り入れ、水彩画・石版画・銅版画からの影響も加えた、光を意識した新鮮な画面となった。新しい洋風の手法で東京の名所を描いた一連の作品は「光線画」と呼ばれ、明治初期の西洋文明移入期にあって人気を博した。また、文明開化の中の東京を抒情豊かに描いた作品が多く、永井荷風、木下杢太郎をはじめ多くの人々に郷愁をもって迎えられた。明治12年からは、版元をそれまでの松木平吉から福田熊次郎にかえて、14年まで刊行が続けられた。 |
駿河湖日没の富士 1879(明治12)年 |
富士の右側に宝永山が見られ、日没の光景が描かれている。狩猟という浮世絵では、比較的珍しいテーマを題材としている。また、獲物を肩に担いだ人物像や画面に平行に線を走らせる水面の描写には、西洋版画の影響が窺われる。人物の表情をより豊かにするため、目や顔などに赤を用い、また湖の水面にも人物の影を浮かび上がらせるなど、画面全体に動きを与えるよう工夫されている。 |
猫と提灯 1877-81(明治10-14)年 |
提灯に逃げ込もうとする鼠を猫が捉えようとする動きのある作品。明治10年第1回内国勧業博覧会への出品作。少々破れあとがあるものの補修もされており、刷りも良い。提灯の「丸抱茗荷」紋は小林家の紋。 |