1912(大正1)- 2002(平成14)
岩手県二戸郡一戸町に生まれる。盛岡中学校で、同級の松本竣介とともに絵画クラブに所属、『ロダンの言葉』(高村光太郎訳)を読んで彫刻家を志す。1934(昭和9)年東京美術学校彫刻科塑像部に入学。在学中は国画会に出品。1939(昭和14)年卒業後、柳原義達、佐藤忠良らと新制作派協会彫刻部創立に参加、会員となる。大理石彫刻を早くから手がけ、流麗な女性胸像を新制作展に発表。1950(昭和25)年、疎開以来住んでいた盛岡で家族とともにカトリックの洗礼を受ける。翌年東京に転居。1962(昭和37)年≪長崎26殉教者記念像≫(長崎・西坂公園)により第5回高村光太郎賞、1972(昭和47)年≪原の城≫で第3回中原悌二郎賞を受賞。翌年ローマ法王から大聖グレゴリオ騎士団長章を受ける。1978(昭和53)年芸術選奨文部大臣賞受賞。1967(昭和42)年より1980(昭和55)年まで東京芸術大学教授として後進の指導にあたった。文筆にも優れ、1983(昭和58)年『巨岩と花びら』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。古典主義を基調とする端正な造形に、静穏な情感を盛り込んだ女性像で知られ、石彫にも優品が多い。 |
杏 1982(昭和57)年 |
誇らかに胸を張った少女が、両脚をそろえて直立している。古典主義を基調とする端正な造形に清爽な情感が通う。1979年の≪シオン≫に連なる作で。両手に杏の実を握る裸婦習作≪杏≫(1982年)に薄い衣を纏わせ拡大した、若い女性の新鮮な生に寄せるオマージュである。本作について作者は、「生硬な印象をさけるため、わずかに上体の向きに変化を与えています。題名の≪杏≫は、若い身体の新鮮な美を思って名付けたものです。両手に持つ果実は、量塊のバランスを試みる意図も含んでのものです」と述べている。(S) |