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佐藤 忠良
SATO Churyo

1912(明治45)-

宮城県黒川郡に生まれ、父の死去により母の実家北海道夕張町に移り、中学より札幌で育つ。18歳の頃より絵を描きはじめ1932(昭和7)年上京、1934年東京美術学校彫刻科塑像部に入学。1937年柳原義達の勧めで出品した第12回国画会で奨学賞受賞。1939(昭和14)年卒業。本郷新、柳原義達、舟越保武らとともに新制作派協会彫刻部創設に参加、会員となる。翌年結婚。1944(昭和19)年応召、満州に渡り、敗戦後3年間シベリア抑留生活を送る。1948(昭和24)年より新制作派展へ出品。その後も新制作を中心に出品を続け、1960(昭和35)年第3回高村光太郎賞を≪群馬の人≫などにより受賞、1974(昭和49)年第15回毎日芸術賞、同年≪帽子・あぐら≫で昭和48年度芸術選奨文部大臣賞、50年≪カンカン帽≫により第6回中原悌二郎賞など受賞。昭和56年にはパリ・ロダン美術館で個展を開き、アカデミー・デ・ボザール会員に推挙された。簡潔で張りのある形態処理によって、風土的体質のこもる日本人の肉体を純化し、頭像や女性像に爽やかな抒情を漲らせている。


みどり

1985(昭和60)年
ブロンズ h.156.0cm
昭和60年度購入 

具象彫刻でありながら、現代の日本で佐藤忠良の作品が人気のあるのは、おそらく彼が彫刻というものをある瞬間の形態を写すのではなく、象徴性が要求されるものとして認識し、不自由の中で特定の説明的要素、小道具の類などをできるだけ拒む姿勢をとり続けてきたことにあると思われる。
当館プロムナードでの設置場所が決まっての本作品についても、彼のコメントによれば「美術館への緩い坂を上り切った左側、木立ちを透して深い緑の中に私の作品の場が決まっていた。若い女性の像が其処へ立って、新しい空気をかもし出すかも知れない彫刻を思いながら、私は像の名を「みどり」とすることに決めた。四季の移り変る風景の中で「みどり」が、いつまでも媚びることなく静かに立っていて慾しいと思う。」(「静岡県立美術館 彫刻プロムナード案内」1986年)とあり、今彼の作品はさりげないポーズのまさに「みどり」としてプロムナードの中にいきづいているが、それは彼の作品が深刻ぶった重い象徴ではなく、どこか風が吹き抜けていくような軽やかさをたたえてなお、凡に堕さない凛とした気品をたたえているところにあると思われる。(Oy)


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