1910-2004(明治43-平成16)
兵庫県神戸市に生まれる。初め日本画を志し、福田平八郎に作品の批評を請うが、偶々ロダン、ブールデルの作品写真を見て衝撃を受け、一転して彫刻家を志す。1931(昭和6)年東京美術学校彫刻科に入学。在学中から国画会に出品し、卒業の翌1937(昭和12)年に同人となる。1939(昭和14)年佐藤忠良、舟越保武らとともに国画会を脱退、新制作派協会に合流し同会彫刻部を創立、会員となる。戦中までの作品は火災で殆ど失われた。1951(昭和26)年第1回サンパウロ・ビエンナーレに出品、翌年から1957(昭和32)年まで渡仏、グランド・ショミエールでブールデル門下のオリコストに学び、また同じ門下のジェルメーヌ・リシエから大きな影響を受けた。1958(昭和33)年第1回高村光太郎賞を受賞。内外の現代美術展、彫刻展に出品する。1965(昭和40)年以降宇部の第1回現代日本彫刻展など多くの野外彫刻展の審査員を務め、また同年より日大芸術学部主任教授となる。1973(昭和48)年第1回長野市野外彫刻賞受賞。1974(昭和49)年、《道標・鳩》により第5回中原悌二郎賞大賞受賞。構築性の強いヒューマニスティックな具象の作風で知られている。 |
坐る 1960(昭和35)年 |
1958(昭和33)年頃から作者は「坐る女」を手がけ始める。作者の「立つ女」が、1950(昭和25)年の《犬の唄》を主たる起源として、ここに寓意されたヒューマニズム(ドイツ占領下のフランス人の抵抗精神)という内容性をその後もある程度継承していくのにひきかえ、「坐る女」の方はより造形的な探究によって、対象に内在する生の姿に迫ろうという意図を示している。腕ぐみして坐る女は首をやや傾け、向かって右の肩をもたげ、また逆に左の脚をあげている。こうして肩、乳房、背、腰、四肢には、作者が常に注目する「自然に内在する量の移動、量と量のひしめき」が生じるが、この上下の肢体の動勢を、腕ぐみした両腕が統合してバランスをとり、作品に深みのある静けさを与えている。「不思議な均衡のうねりの中に生命はいきづいている。生のあかしの美しさ、ここに私の目がある」と作者は言う。 |