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ヴァシリー・カンディンスキー
Wassily Kandinsky

1866-1944

モスクワに生まれる。モスクワ大学で経済学と法律を学ぶが、1896年モネの「積み藁」を見て衝撃を受ける。同年、ドルパート大学の招聘を辞退してミュンヒェンで絵画を学び始める。A.アズベ、F.フォン・シュトゥックに師事。1901年にグループ「ファーランクス」を結成。1902年にその画塾の女性ガブリエーレ・ミュンターと知り合い制作旅行などともにする。1909年、ヤウレンスキーらとミュンヒェン新美術家協会を結成。この頃、ミュンターとムルナウに滞在、最初の抽象画ともいうべき《即興》数点が描かれる。1911年にはマルクらと「青騎士」展を開催、『芸術における精神的なもの』を出版。鮮やかな色彩に満ちた熱い抽象の時期である。1914年ロシアに戻り、政府の美術制作のため尽力する。1917年、ニーナ・アンドレイフスカヤと結婚。1922年ワイマールのバウハウスに赴任、予備課程及び壁画工房で教える。直線的形態のまさった冷たい抽象画を描く。1926年には造形理論をまとめた『点・線から面へ』を刊行。バウハウスの移転に伴いデッサウ、ベルリンと移るが、ナチスの台頭で1933年フランスに亡命し、複雑な有機的形態をとった抽象作品を手がける。1944年ヌイイ・シェル・セーヌで没。


《冷たいかたちのある即興》のための習作

1914年頃
水彩、グワッシュ、鉛筆、紙 33.0×24.0cm
昭和58年度購入

1987年東京におけるカンディンスキー展で、この作品は1914年の油彩画《冷たいかたちのある即興》(モスクワ、トレチャコフ美術館蔵)のエスキースとして位置付けられている。最初の抽象画の試みのシリーズである《即興》に見られる、早描きのほとばしるような色彩を、確実な形態で制御しようとした時期に制作されたものと考えられる。鉛筆で決められたかたちに対して、透明水彩の忠実な彩色と白のグワッシュによる調子づけがなされている。
2つの大きさの違う弧の少しずらされた組み合わせから、求心的な構図が成り立つ。弧と弧の間隙が青・黄・赤の三原色で埋められる、2つの弧にはそれぞれ細長い形態群が配され、小さい弧に出入りするかたちのほうが、画面斜め方向のダイナミズムを決定的にする。2つの弧はまた、画面左上の小さめの黒い円の一部と呼応して、遠近の感覚を醸し出している。
この頃のカンディンスキーはロシアの街や、人物その他物語的なモティーフを咀嚼し、非対象絵画の領域に入り込んでいた。だが、幾つかの主要なモティーフは完全に姿を消してしまうというわけでもなく、非描写的な色彩や形態の部分と響き合って深い画面空間を形成している。(Ym)                            


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