1839-1906
エクス・アン・プロヴァンスの富裕な中産階級の家庭に生まれる。エクスの法科大学に入学するが、画家になる決意を固め、1861年パリに出る。が、美術学校の試験に失敗。アカデミー・シュイスに通い、ピサロ、モネ、ルノワールらと知り合う。初期には厚塗りの粗く強いタッチや暗い色調によって、本能的な衝動を表出。1874年第1回印象派展に参加。この頃ピサロと制作を共にしたことにより、印象派的な光と色調による作風を展開。が、第3回印象派展の出品以後印象派からも離れ、1880年代以降はパリとエクスを往復しながら孤独のうちに制作。サント・ヴィクトワール山をモティーフとした風景画、静物画、水浴図のジャンルで独自の造形的探求を続ける。1895年ヴォラール画廊での最初の個展によって前衛芸術家たちの注目を集め、1907年サロン・ドートンヌでの大回顧展以後、その名声は批評家たちの間でも高まる。エミール・ベルナールに「自然を円筒、球、円錐によって扱う」ように勧告した手紙はあまりにも有名。自然の対象を本質的形態に集約し、構築的な画面に再構成したセザンヌの作画態度は、キュビスムをはじめとする20世紀のモダニズム絵画に大きな影響を与えた。エクスにて没。 |
ジャ・ド・ブーファンの大樹 1885-87年 |
美術家にとって、自己の芸術の探求とメディウムの選択及び技法とは、不可分の関係にある。セザンヌは、油彩画に次いで水彩画を多く制作した。リウォルドのカタログ・レゾネによると、その作品数は645点を数える.セザンヌの芸術的目標の一つは、自然に即しながら、自己の視覚的感覚を徹底して実現することにあった。その点、水彩画の特性である絵具の速乾性は、野外スケッチの記録に適している。 画面のほぼ全体に見られる規則的な斜めのタッチは、1880年代に展開されたセザンヌ特有の手法である。本作では、彼の視覚的印象を伝える制作行為であると同時に、画面上に平面的パターンとリズムとを作り出す造形要素となっている。色彩システムは非常に限定されており、青と緑を基調色に、黄緑と赤茶色をアクセントにしている。そして、塗り残された余白が軽やかさと明るさとを提供し、水彩画ならではの効果を上げている。 ところで、タイトルのジャ・ド・ブーファンとは、エクス・アン・プロヴァンスの郊外に父親が購入した別荘の名称である。ここでの風景をもとに、セザンヌは多様な制作を行なった。野外の制作場所に赴くことを「モティーフに行く」と現したセザンヌにとって、ジャ・ド・ブーファンはまさしく創造の源であった。(M) |