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ポ−ル・ゴ−ギャン
Paul Gauguin

1848−1903

パリのノ−トル=ダム・ド・ロレット街に生まれる。父はジャ−ナリストで共和主義者。母はペル−生まれの社会主義者で作家のフロ−ラ・トリスタンの娘だった。1歳から6歳までペル−ですごしたのちパリに移る。1865年商船の見習い水夫となり、リオデジャネイロに旅行する。1871年、パリの株式仲買業のベルタン商会に入社し、二年後にデンマ−ク生まれのメット・ソフィ−・ガッドと結婚。その後まもなく画塾アカデミ−・コラロッシに通うようになる。1876年サロンに初めて風景画を発表、以後印象派展(第4-8回)に絵画と彫刻を出品する。1883年、34歳で株式の仕事を辞め画家に転身するが、思惑どおりに絵は売れず、生活に行き詰まる。都会の退廃と腐臭を嫌ったゴ−ギャンは、1886年以後、ブルターニュ地方のポン=タヴェンやル・プールデュにしばしば滞在。浮世絵などの影響のもとに、エミ−ル・ベルナ−ルらとともに、くっきりとした輪郭線と平坦に塗られた色彩による総合主義的絵画を制作する。1888年10月から二か月間、ゴッホに招かれアルルで共同生活をおくるが、耳切り事件を機に別れることになる。1891年にオテル・ドウ ルオで自らの油彩画30点を売却しタヒチ行きの資金を稼ぐ。1891年4月、42歳でタヒチに渡り、93年6月まで滞在。1895年7月、ふたたびタヒチに向かい、孤独と病気に耐えながら、逞しい現地民とその原始的な生活にモティーフを求めるようになる。輪郭線に縁どられた形態と、強烈な色彩の平面的な扱いは、ルネサンス以来の空間のイリュージョンを否定した20世紀美術に大きな影響を与えることになった。1903年5月、心臓発作のためマルケサス諸島のヒヴァ=オア島で没し、同年10月にはサロン・ドートンヌ(プティ・パレ)で、ゴ−ギャン評価の出発点となる回顧展が開催された。


家畜番の少女

家畜番の少女(Gardeuse de Porcs)

1889年
73×92.4cm
油彩・キャンヴァス Oil on canvas
P Gauguin 89.

1888年2月、ゴ−ギャンは86年に引き続き、ブルタ−ニュ地方の小さな村ポン=タヴェンに滞在した。同年8月には旧知のエミール・ベルナールと合流し、「事物を前にして描くのではなく、想像力のうちに捉え直して描くべきだ」というベルナールとともに、象徴的総合主義の実験を続ける。すでに当時のゴーギャンは、「芸術とは一つの抽象作用だ。自然を前にして夢想しながら、自然から芸術を抽き出すこと」(1888年8月14日。シュフネッケル宛書簡)と述べるようになっていた。
こうした考えのもとに、翌89年春からの第三次ポン=タヴェン時代には、新たな画風が確立していく。1889年には70点の作品が制作され、その中には《美しきアンジェール》(オルセ美術館)、《戯画的自画像》(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)、《今日はゴーギャンさん》(プラハ国立美術館)、《黄色いキリスト》(オルブライト=ノックス美術館)、《黄色いキリストのある自画像》(個人蔵)などの名作が含まれているが、規則的な筆使い、リズミカルな輪郭線、平面的に塗られた絵具による装飾的効果は、クールベや印象派流のリアリズム的描写とは明らかに異なる、心象の「総合的表現」を進めたものとなっている。
妻メット旧蔵の《家畜番の少女》は、こういった特色をよく示す風景画の一つで、1893年にはコペンハーゲンで、ヴァン・ゴッホの遺作とともに陳列されている。青・黄・赤の三原色を基調としたこの作品は、規則的なタッチを活かしながら、対象を二次元的・抽象的な色面にまとめあげ、ルネサンス以来の遠近法的空間表現(イリュージョニズム)を放棄している。画面左上の白いピラミッド形態は、解読不能な神秘性を示すが、三角屋根をもつブルターニュの農家のイメージを、ゴーギャン自身の抽象への欲求から変容させたものと解釈できるかもしれない。また風避け用フードを被った少女と三頭の豚を、中景の木立の前方に配した構図は、17世紀以来の西洋風景画の伝統である「牧歌的風景画」を受け継ぐものとして興味深い。
1891年4月、ゴーギャンはタヒチに旅立ち、93-95年の帰仏を挟んで、1903年の没年まで南海諸島で制作を続ける。これら晩年の作品は、より装飾的効果にみちた原色による色面構成を特徴としているが、そこに至る画風の変化は、1888年のブルターニュにおける「象徴的総合主義」の実験で明確になったといってよい。それは1905年に始まるフォーヴィスム(マティス、ヴラマンクなど)の運動や、1910年前後に展開する抽象美術を予告するものでもあった。


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