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平成14年度夏休み子どもワークショップ




日 時: 平成14年7月30日(火)〜8月3日(土)
講 師: 金沢健一氏(彫刻家)
参加者:

小学校低学年+保護者の部(7/30〜31):子ども13人、保護者11人
小学校高学年の部(8/1〜2):子ども13人
中学生以上の部(8/3):子ども3人、博物館実習生18人


1. 彫刻家・金沢健一さんと《音のかけら》シリーズ。手前から《音のかけら2》(当館蔵)、《音のかけら1》(寄託)、《音のかけら6》(寄託)

2. 金沢さんのパフォーマンスを見る。
3. 様々な道具、様々な叩き方によって、多彩な音を鉄から取り出す。
4. 《音のかけら》についての説明を聞く。
5. まずは、手で叩いてみたり、かけらを持ち上げてみたりして、鉄の感触を確かめる。
6. 《振動態》を見る。鉄板をこすると、大きな共鳴音が出る。
7. その上に人工大理石の粉をまく。振動のしかたに応じて、様々な文様を描き出す。
8. 参加者自身で、《音のかけら》を体験してみる。様々な道具を選んで、好きなように叩き、自分の気に入った音を見つける。
9. 叩く、こする、投げる、撫ぜる・・・やり方は無限だ。
10. 自分が気に入った音を発表する。緊張しながらも、それぞれパフォーマンスをする。
11. 親子で、あるいは兄弟で、または全くの他人同士で「音の会話」をしてみる。
12. 時折、金沢さんが割って入ってきて、即興のセッションが始まる。がんばれ、参加者!
13. いよいよ、自分の《音のかけら》作りに入る。一人ずつ直径50cmの鉄板をもらう。それをどのような「かけら」に分割するか、紙に設計してみる。
14. 決まれば、チョークで鉄板に線を引く。どんな形から、どんな音が出てくるのか、形と音の関係に思いをめぐらせる。
15. 参加者が引いた線に従って、金沢さんが鉄を切ってくれる。この熔断(ようだん)の作業を、最初はおっかなびっくり見学する参加者たち。
16. きれいに鉄を熔断するには、高い技術が必要である。腕の冴えを見せる金沢さん。
17. 参加者は、金沢さんの助手をつとめる。まず自分の鉄板を金沢さんのところまで持っていく。鉄板は約18kgあるので、子どもたちには重い。二人一組で協力する。また皮手袋をして、切られた「かけら」をすばやく台車に載せる。
18. 台車に載せた「かけら」を水場へ移動し、水で冷やす。立ち上がる水蒸気による火傷に十分注意する。こうして、参加者は、鉄の重さや、熱さや冷たさを体感する。
19. 「かけら」が十分に冷えたら、「かけら」の切り口に残るギザギザ(バリ)を、やすりで磨き落とす。
20. 熔断作業の一方で、マレット(ばち)を作る。棒をのこぎりで切って、柄を作る。
21. 木球にボール盤で穴をあける。巻き込み事故防止のため、軍手ははめない。その穴に、柄を差し込んだら出来上がり。
22. 「かけら」の型紙を作る。型紙は「かけら」を組み立てるときの案内になるとともに、《音のかけら》を空間内にどう展示するか、位置決めに用いる重要なものである。
23. できあがった型紙とマレット。マレットにはフエルトを張り、硬い音とともに柔らかい音も出せるようにする。
24. 「かけら」の下にゴムの足をつけて並べれば、完成。
25. さっそく自分の《音のかけら》から音を出してみる。
26.

我が子の演奏を見守るお父さん。でも、次はお父さんの番だ

27. 皆、いっぱしのパフォーマだ。《音のかけら》の演奏に大人も子どももない。
28. 音を通して、みんなの心が一瞬、通いあう。
29. 型紙を使って、きれいに《音のかけら》を配置し、みんなで演奏する。ひとりで、あるいは複数で、入れ替わり立ち代わり演奏していく。金沢さんが適時、指示を出すが、演奏は基本的に即興だ。何を使って、どう叩いて自分の音を出すかは、本人の発想しだい。
30. 子どもが指揮して、大人が演奏する。《音のかけら》は、大人が上手いとは限らない。
31. 最後にみんなで記念写真。小学校低学年と保護者のグループ。
32. 記念写真。小学校高学年のグループ。
33. 記念写真。中学生と博物館実習生(大学生)のグループ。
34. 参加者の作品のいくつかは、美術館内に展示し、来館者にも楽しんでもらった。
   

ワークショップを終えて
 厳しい子どもワークショップであった。厳しいというのは、講師の金沢健一氏が、子どもたちを叱るというような皮相な意味ではない。芸術表現の本質にかかわる厳しさを垣間見ることができたという意味である。

 当館は、平成13年度に金沢氏の作品《音のかけら2》を購入、収蔵した。金沢氏(1956〜)は幾何学的な構成による鉄の彫刻を作りつづけている彫刻家であり、それと平行して《音のかけら》と呼ぶ参加体験型作品のシリーズも制作している。《音のかけら》シリーズは、鉄板を様々な形に熔断し、それぞれのかけらの下にゴムの足をつけてならべた作品である。かけらをマレット(ばち)等で叩くと音が出る。叩くものや、叩き方によって無尽の音を鉄から取り出すことができるので、子どもから大人まで、素人からプロの演奏家まで、あるいは目の不自由な人たちまで、誰でも楽しめる作品である。当館でも《音のかけら2》や、寄託されている他の《音のかけら》シリーズの作品を展示するたびに、作品の音色とともに来観者の歓声が響き、人気を博している。

 こうした評判をもとに企画されたのが、今回のワークショップである。だが最初、私には戸惑いがあった。というのは、《音のかけら》を使って楽しいワークショップをするのは、簡単なのである。音、形、鉄、それぞれの切り口から多様なプログラムを立案することもたやすい。だが、それならば誰が講師でもいいのだ。《音のかけら》は、参加者に対してと同じく、指導者にとっても開かれている作品なのである。しかし、わざわざ金沢氏を呼ぶからには、それ以上のワークショップが可能なのではないか。だが、それはどのようなものなのか。私の戸惑いはそこにあった。

 過去に行われた金沢氏のパフォーマンスやワークショップ(大人相手のものだったが)を見学したり、参加してみて感じたのは、つねに張り詰めたような緊張感が満ちていたことであった。金沢氏の活動は、その彫刻作品と同じく、端正で厳格な雰囲気を備えていた。そうした緊張感が、子ども達を対象としたときに、どのような状況を生むのか、その予測がつかなかった。

 私自身の経験で言うと、子ども相手の楽しいワークショップを企画、実施するのは、実は簡単なのである。子ども達を集めて、自由に、存分に創作させる。何か形に残るものを作らせて、お土産に持たせてやれば、なお喜んでくれる。ワイワイ、ガヤガヤしながら作るのは、伸びやかな個性を育むためには有意義だろうし、こちらも楽しい。だが、正直言って、そういう楽しいワークショップは、私はやり飽きてしまった。

 楽しいだけではない、何か、もっと芸術活動の本質を問うようなワークショップ。参加している子ども達だけが楽しいのではなく、その行為そのものが何がしかの芸術性を帯び、第三者に深い感銘を与えるようなワークショップ。教育活動に留まらず、それ自体が芸術であるワークショップ。

 作家を呼ぶからには、そのようなものをやってみたい、そう思った。今だから告白するが、私は今回のワークショップを企画した当初の段階から、楽しいワークショップをやろうという考えを放棄していた(前述のとおり、《音のかけら》を使う以上、楽しさは最低限保証されていると言えるし、鉄を切る作業を手伝う希有な体験ができ、さらには自分の《音のかけら》を手土産に持ち帰れるのだから、どう転んでも参加者は損をするはずはないのだ)。

 そして、実際にワークショップが始まってみると、金沢氏は、子ども達に延々と《音のかけら》を叩かせた。もちろん必要な説明や指導は適時行うが、それは最低限であった。子ども達は、一人で、あるいは複数で《音のかけら》を使ったパフォーマンスを、みんなの前で発表することを求められた。子ども達は、緊張と戸惑いの中で、様々な音を出した。多くの子ども達は、いつ始めて、いつ終わればいいのかわからずに延々と音を出した。「もういいですか」と無言で金沢氏の顔をうかがうが、金沢氏はそれを無視した。ただ黙って、子ども達の出す音に耳を澄ませた。

 今の子ども達に(一人の全盲の少女を除いて)、表現するべき内容やモティベーションがあろうはずがない。彼等が出す音は、いくらかの喜びと自発性に支えられてはいても、状況から強いられて機械的に発音されているものにすぎない。自分の出した音を食い入るように聞こうとはしないし、人の音ならなおさらそうである。だから彼等の演奏はすぐに終わってしまう。それは表現するということとはほど遠いものである。

 だが金沢氏は、それを繰り返させる。簡単なヒントを与えることはあっても、指導などはしない。子ども達が飽きようが、戸惑おうが、何度でも彼等に音を出させる。

 ところが、非常に興味深いのは、その中から、ときおりはっとするような音が出るのである。叩き方やリズムや音色などが、まったくの偶然に、瞬間的に変貌する。飽きてきた子どもが、乱雑に、無気力に、あるいは暴力的に叩く時、意図的に計算されたのでは決して出ない音が生まれる。本人が気づいてそれを展開することもあれば、まったく気づかずに、すぐに消えてしまうこともあるが、まぎれもなくその音は、その瞬間に、表現として立ち現われてくるのである。

 金沢氏は、耳を澄ませてそれを聞いているのだと思う。表現以前の音と、表現としての音。その微妙な境界を見定めることが、金沢氏のねらいなのではなかろうか。そのために金沢氏はときおり子ども達の演奏に割って入り、即興のセッションを仕掛けることもある。突如、乱入してくる金沢氏の音に、いっそう戸惑いつつも、必死に音を出そうとする時、狭く、未成熟な自我を越えた地点からやってくる神の声とでも言うべき、表現としての音が現出するのだ。

 誤解を恐れずに言うなら、金沢氏は自分が楽しむために、このワークショップをやっているのである。子ども達の機嫌を取って、彼等を楽しませてやろうなどとは微塵たりとも思っていないに違いない。金沢氏は、表現を紡ぎ出す行為として、それはすなわち制作行為として、この活動をやっているのである。つまるところ、金沢氏は講師ではなく、やはり作家なのである。

 これはワークショップを偽装した作家活動である。こう言うと、功利的な誤解を生むかもしれないが、あらゆる機会を自分の制作行為として利用する、それが作家の本性なのであり、それくらいでなければ作家として生きていけない。私は金沢氏に、作家という生き様の厳しさを見る思いさえした。

 だが、そもそも表現するということは厳しいことなのだ。たった一人で、衆目を前に語らなければならない。誰よりも自分の声に耳を澄まし、他者の声を聞き、それらの響き合いの中から、何かを立ち上げていく行為。これがちゃらちゃらと楽しいだけの行為であるはずがない。そして、そうした厳しさの上に立ち表れる表現を見る時、そこに本当の楽しさがあるのであり、金沢氏や他者とのセッションでそれを分かち合えた時にこそ、他の何にも代え難い喜びを感じることができるのである。表現することに、大人も子どももない。だから、金沢氏は子ども達を子ども扱いしたりはしないのだ。

 今回のワークショップに参加してくれた子ども達、見学に来た保護者やその他の人達が、そのような表現することの厳しさと喜びを少しでも感じ取ってくれたならば、企画者としては幸いであると、今にして思っているところである。

 最後に確認しておかなければならないのは、このようなワークショップが可能だったのは、《音のかけら》という作品だったからだということだ。金沢氏は、《音のかけら》を楽器と見なされることを嫌い、「楽器以前のもの」と呼ぶ。楽器とは、特定の文化的、歴史的コードのもとで作られ、そこから出る音はすでに文明化された音である。コードを習熟した奏者によって奏でられるので、基本的にそのコードに枠付けられた表現しか生まれない。だが《音のかけら》は、楽器よりもはるかに音のレンジが広い。鉄の物質そのものの音から、まさに鉄琴のようなクリアな音まで、叩き方や叩くものによっても様々である。特定のコードに依らない剥き出しの音の集まりの中から、何を紡ぎ出してくるのか、叩く者が問われるのである。それゆえに《音のかけら》は、より現初的な表現の表出装置として機能するのである。だからこそ、表現そのものを問うこのようなワークショップが可能なのであり、金沢氏が《音のかけら》の制作にとどまらずに、こうした活動を続けている理由もそこにあるのである。ちなみに、音をテーマにしたワークショップによく見られる「リズム遊び」を金沢氏がやらず、つねにインプロヴィゼーション(即興)に依っている理由も、ここにあるだろう。

 《音のかけら》を、鉄と文明、大地と人間、水平と垂直などのメタファーで語ることは可能である。《音のかけら》が大地の地割れのような作品であるにもかかわらず、ゴムの足によってその大地からわずかに立ち上がっているように、人が人として、大地から二本の足で立ちあがること、その厳しさこそが、表現することの厳しさのはるかなる起源なのだと思う。帰するところ《音のかけら》の鑑賞とは、そのような人類の太古以来の記憶を追体験するということなのであろう。今回のワークショップは、そうした実践の一例であったに違いない。

堀切正人(当館学芸員)




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