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●研究ノート

 狩野探幽の写生
 -新収蔵《白鷴図》から - 山下善也

「水邸前の溝水にて、斑毛の鴨とりし殺生方安藤十左衛門定朝、鳥見田澤杢右衛門正次、網奉行小出勘右衛門定勝、時服一づゝかづけらる。餌指一人、銀三枚下さる。又画工狩野探幽守信して、その鴨を写真せしめらる」

  これは、徳川幕府の公式記録『徳川実紀』のうち、三代将軍家光の時代にあたる『大猷院殿御実紀』の慶安3年(1650)12月26日の記事。 

 この日、江戸城内の水邸(水戸徳川邸か)前の溝で、羽が斑模様の鴨を捕獲、それに携わった殺生方、鳥見、網奉行、餌指、それぞれに将軍家光より褒美が出された。その内容が記録されている。ちなみに殺生方(せっしょうがた)とは、将軍家の狩猟全般を取り仕切る役職だ。注目したいのは、最後の部分。将軍は、その鴨を幕府絵師の狩野探幽(1602〜74)に写させた。「実物の鳥を前に写生する探幽の姿」を伝える史料なのである。

 実際、京都国立博物館蔵「探幽縮図」中の《鷹図巻》に鶴の実物写生が見られるし、探幽画の忠実な模本として、英国・大英博物館の野田洞a筆《狩野探幽筆鳥類写生帳模本》と京都国立博物館の尾形光琳筆《鳥獣写生帖》が知られている。探幽の実物写生のありようをビジュアルにつたえる実例だ。

  探幽は確かに鳥の実物写生をしていた。その事実を頭に入れてみるべき作品が、当館蔵の狩野探幽筆《白鷴図》[挿図1]である。幅1メートル近い大画面の掛幅であり、平成16年度に当館が購入、さる4〜5月の「新収蔵品展」で公開された。 

 昭和3年まで松方公爵家に所蔵(福井・永平寺の探幽筆≪四季花鳥図≫4幅対や米国・バーク財団の探幽筆《笛吹地蔵図》も同家旧蔵)され、その後、長らく所在不明だったが、近年発見され「生誕400年記念・狩野探幽展」(2002年、日本経済新聞社・東京都美術館)で初公開、その後、当館の「特集・狩野派の世界2003」展(2003年)にも出品された。制作時期は、落款の特徴から、1661年(万治4)頃、探幽60歳頃と推定される。

  画面を支配する側面観のハッカンのオス、その尾羽の奥に、四分の三面観のメスが首をめぐらせて寄り添うように配されている。さらにその奥、秋草のススキ、白菊が添えられる。鳥の脚元にささっと刷かれた淡い墨は、地面を暗示するものだ。 

 鳥はくっきりと強く、秋草は淡く優しく描かれ、その相乗効果によって、対象の性質が実によくしめされている。色彩に注目すると、派手なオスの白黒赤、地味なメスの茶、秋草の淡い緑、というように手前から奥へ彩度や明度を徐々に逓減させて重ね、若干の奥行とその間にある空気の層さえ感じさせるような画面を実現している。なんと静かで落ち着きがあり、気品あふれる画趣だろう。

 ハッカンはキジの仲間で中国南部原産。日本へは平安時代いらい輸入され、珍鳥として珍重、貴族らに愛玩された。全長は、オスが90〜125cm、メスが55〜70cmとされる。作品中のオスを実測すると全長75cm、すこし奥にいることを考慮すれば、ほぼ実物大だ。

[挿図1]狩野探幽 1602〜1674(慶長7-延宝2)
≪白鷴図≫1幅 1661年(万治4)頃 絹本着色 54.2×94.2 cm

[挿図2]ハッカンの実物(オス)

[挿図3]ハッカンの実物(番い)

 実物の写真[挿図2・3]と比較してみよう。かなり忠実な再現といえるのではないだろうか。首や胴の丸みの的確な描写によって、対象の立体感が見事に表されているし、地面を踏みしめる脚には、付け根から指先までぴいんと神経が通っている。眼の周りに彩られた深紅色は、絵画的にも効果的なアクセントだが、実物の特徴の忠実な再現でもあった。

 実に丹念な細部描写にも目をこらしたい。オスの白い羽根は、墨線による輪郭なしに胡粉のみで描かれ、レースのように繊細な透明感をしめし、首から肩にかけて流れる幾筋もの曲線は、柔らかな羽の質感を見事に表している。体部から尾羽にかけての墨で描かれたジクザク模様は、ハッカンのオスの特徴をしめすもの。

 メスの体部のうろこ状に敷きつめられた羽毛も、輪郭線を排除して、触ったら指が沈みこみそうなふんわり感が生み出されているし、墨と素地を実に細かく隣り合わせた複雑な模様の尾羽も、固い質感をしめしながら確かなリアリティを生んでいる。経年変化で見えにくくなっているものの、秋草の菊の花弁やススキの穂は、薄い胡粉のみの透けるような白で描かれており、その繊細さは感嘆の一語につきる。

 この絵自体が実物を前にして描かれた、と言いたいのではない。作品は、絹地に着色で描かれた本絵である。中国宋元の花鳥画からの模写では、という意見も出るだろう。だが、探幽が鳥の実物写生をしていた事実と、絵が実物とかなり一致することを考え合わせれば、本絵に仕上げる前段として実物写生があったという推測に無理はない。描くにあたって、宋元画から学習した筆法を用いたとしても、私はあえて、探幽が紙への現物写生を重ね、それを下絵にして絹地の本絵に仕上げたものとみたい。つまり、この絵は探幽の実物観察と確かにつながっている、と言いたいのである。

 江戸時代の絵画作品について「写生」の問題を考えるのは、なかなか難しい。今日、私たちは、「写生」について、実物を前にして写したもの、つまりスケッチ=写生という等式のもとで理解している。それは私たちが近代以降の西洋流の美術教育を受けたためだが、近代より前からあった「写生」の概念には、もう少し広がりがあった。

 江戸時代における「写生」について、河野元昭氏は、冒頭に掲げた記事を含めて考察された(河野元昭「江戸時代「写生」考」『日本絵画史の研究』吉川弘文館 1989年)。そのなかで、江戸時代の画論書の「写生」の語の使用例を分析され、近代より前の「写生」には、スケッチより広い意味があることを指摘された。

 具体的には、(1)対看写生「現在のスケッチと同様に対象を見ながら描く行為や作品」という意味以外に、(2)生意写生「対象の生意を把握、描写することで観察と同時である必要はない」、(3)客観写生「客観的正確さを主眼としたもの」、(4)精密写生「精巧緻密な描写のこと」の意味で用いられていること、この広がりの一部にすぎないスケッチの翻訳語として、「写生」の語が採用されたと説かれた。ある作品が、これら4つの写生のどれかひとつにあてはまる、というのではない。個々の作品に、これら4要素が複合的に表われてくるのである。探幽筆《白鷴図》の場合、(3)と(4)はもちろんだが、(2)の要素が濃厚だと感じられるし、その前提として(1)の下絵が作られていたに違いない、そのように私は考える。

 探幽と写生の密接な関係をしめす本絵といえば、これまで福岡藩主・黒田家伝来の探幽筆≪獺(かわうそ)図≫(福岡市美術館蔵)がとりあげられてきた。今後、当館の探幽筆《白鷴図》、さらに畠山記念館の探幽筆《白鳥図》も含めるべきだろう。教科書では、写生を本絵に生かし始めたのは円山応挙(1733〜95)とされるが、実は探幽がいち早く実践していたのである。

 江戸時代絵画の幕を開けた画人として、探幽の重要性は繰り返し確認されていくにちがいない。探幽筆《白鷴図》が収蔵され、当館の探幽作品は6件と充実、それらには探幽のさまざまな魅力が秘められている。その解き明かしを、さらに進めていきたい。 
 (当館主任学芸員)


 


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