ヘッダー(ロダン)
ロダン 鑑賞の手引き
AUGUSTE RODIN Guide book

もっとロダンを知るためのキーワード 5

Key word V-Z

V:ヴィクトル・ユゴー Victor Marie HUGO(1802-85年)

 ロダンは、20年以上もヴィクトル・ユゴーに関わる作品制作に携わった。小説『レ・ミゼラブル』の作者として知られるヴィクトル・ユゴーは、19世紀フランスを代表する文化人だが、第二帝政に敵対して18年間ガンジー島に亡命した経緯を持つ。
 まず初めに、ロダンは晩年のこの文豪の肖像を制作する許可を得たが、ユゴーはポーズをとることは承諾しなかった。が、好きなだけ自宅を訪ねてもよいと認められたため、生活の中の様々なユゴーを観察してクロッキーに描いては、デッサンと記憶を頼りに粘土で制作したことが伝えられている。
 次に1889年に、その遺骸が納められているパンテオンに設置するための、《ヴィクトル・ユゴー記念像》の制作依頼を受けた。ロダンは、3人のミューズが、ガンジー島の岩の上に裸体で座るユゴーを取り囲んでいる主題を選んだが、この案は芸術委員会から拒否された。1891年には、リュクサンブール公園に設置するための《ヴィクトル・ユゴー記念像》も新たに受注した。ロダンは、ユゴーの足跡を辿るため、画家のウジェーヌ・カリエールらとともにガンジー島へ旅行している。ユゴーを巡るふたつの記念碑は、ミューズや寓意像を伴う座像形式のもの、またセイレンらを配した立像形式のものなど、様々な変更を重ねた習作が知られるが、いずれも実現されなかった。大理石で制作されたユゴーの姿だけが、1909年設置場所をパレ=ロワイヤルに変更して除幕された。


W:ホイッスラー James Abbott McNeill WHISTLER(1834-1903年)

 ロダンは、主にイギリスで活躍した画家ホイッスラーの後任として、1903年、ロンドン国際彫刻家画家版画家協会の会長に就任した。二人は面識があった。2年後、ロダンはホイッスラー記念碑の制作を依頼される。翼のある勝利の女神という注文は、誹謗や中傷などに打ち勝ったホイッスラー芸術を象徴する内容だったが、これに対しロダンは、芸術家に霊感を与えるミューズが画家のメダイヨンを持つ構想を抱いた。ミューズのモデルに、画家のグエンドレン・メアリー・ジョンを起用し、1908年の国民美術協会(ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザール)のサロンに最初の《ミューズ》を出品した。その後もロダンは制作に取り組み続けたものの、徐々に興味を失い、このモニュメントはロダンの死とともに未完成に終わった。
 残された作例と発表当時の写真から、この作品には、変化に富んだ様々な段階のプランが存在していたことが分かる。


オーギュスト ・ロダン
《ホイッスラーのためのミューズ》
1903-08年頃 静岡県立美術館

X:クセノフォン XÉNOPHON(B.C.430年頃-B.C.354年頃)

 読書はあまりしなかったとされるロダンだが、読んだ作品についての感想を時折手紙に書いている。例えば、画家で親しい友人だったエレーヌ・ヴァール夫人に、ギリシアの武将・文筆家のクセノフォンが著わした『キュロスの教育』を手紙とともに送っている。全8巻からなるこの著作は、ペルシア帝国建設者であるキュロスの教育と、彼の帝国建設から死にいたるまでを軸に、国家と支配者に関する理念を述べた倫理的な教養小説である。まだ目にしていないことを吐露したヴァール夫人への返事に、これが「人を高める神」についての書籍であることは確かだと、ロダンは綴っている。古代ギリシアの著作を読むことは、1890年代の終わり頃から始まった古代美術作品の収集と関係があるかもしれない。
 なお翌年の1897年には、同じくヴァール夫人に宛てて、トルストイの「崇高」な『クロイツェル・ソナタ』を読むようにロダンは勧めている。


Y:目 yeux

 1870年から71年にかけて、プロイセンを主とするドイツ諸邦とフランスとの間に普仏戦争が勃発した。結果はドイツの大勝で終わり、フランスはアルザス・ロレーヌ地方を割譲する羽目になった。当時30歳のロダンは召集令状を受け取り、伍長として国民防衛軍に編入されるが、近視が原因で除隊となる。同じ年に制作された《国の護り》は、この戦争に愛国心を触発されたことがきっかけだった。


Z:エミール・ゾラ Émile ZOLA(1840-1902年)

 19世紀前半のフランスを代表する文豪バルザックの記念像をロダンに発注するように提案したのは、ゾラだった。ゾラは『居酒屋』や『大地』で知られる、19世紀後半の小説家である。制作を依頼した当時、ゾラはバルザックが創設した文芸家協会の会長を務めており、1891年から94年4月まで、次いで95年4月から96年までその地位にあった。《バルザック》像を受注した当初ロダンは、自分こそバルザックの彫刻家であり、後ろ盾にゾラがいると、誇りにしていた。しかし、1893年納品の約束を一向に果たさないロダンに対し、ゾラは彫刻家としてのロダンの才能を賞賛しつつ、これ以上待たせないようにと書簡で懇願している。結局、《バルザック》像は、その斬新さによって文芸家協会から受け取りを拒否され、センセーションを巻き起こした。


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