W:ホイッスラー James
Abbott McNeill WHISTLER(1834-1903年)
ロダンは、主にイギリスで活躍した画家ホイッスラーの後任として、1903年、ロンドン国際彫刻家画家版画家協会の会長に就任した。二人は面識があった。2年後、ロダンはホイッスラー記念碑の制作を依頼される。翼のある勝利の女神という注文は、誹謗や中傷などに打ち勝ったホイッスラー芸術を象徴する内容だったが、これに対しロダンは、芸術家に霊感を与えるミューズが画家のメダイヨンを持つ構想を抱いた。ミューズのモデルに、画家のグエンドレン・メアリー・ジョンを起用し、1908年の国民美術協会(ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザール)のサロンに最初の《ミューズ》を出品した。その後もロダンは制作に取り組み続けたものの、徐々に興味を失い、このモニュメントはロダンの死とともに未完成に終わった。
残された作例と発表当時の写真から、この作品には、変化に富んだ様々な段階のプランが存在していたことが分かる。 |
オーギュスト ・ロダン
《ホイッスラーのためのミューズ》
1903-08年頃 静岡県立美術館 |