ヘッダー(ロダン)
ロダン 鑑賞の手引き
AUGUSTE RODIN Guide book

もっとロダンを知るためのキーワード 4

Key word Q-U

Q:カンペール Quimper

 ベルギーから戻ると、ロダンはフランス中部地方にある大聖堂を巡る初めての大旅行に出かけた。以後、美しい季節に定期的にフランス中の遺跡や記念建造物を訪れた。ロダンが遍歴した場所は、西はブルターニュ地方のカンペールから東はブルゴーニュ地方のディジョンまで、北は大聖堂で名高いアミアンから南はトゥールーズまで及んでいた。旅行の合間に柱やアーチの曲線、刳形(くりがた)などの建築の細部などを描き溜めたデッサンは2,000枚近くに上る。この中から、100枚を挿絵に選び、ロマネスクやゴシックのみならず、ルネサンス様式の教会建築に対する長年の深い洞察を語った『フランスの大聖堂』が、最晩年の1914年に刊行された。挿絵図版は、『悪の華』や『拷問の庭』と同様に、オーギュスト・クロによって複製にされた。


R:リルケ Rainer Maria RILKE(1875-1926年)

リルケは、小説『マルテの手記』で知られる、プラハ生まれのドイツの詩人。ロダンに関する著作を書くよう依頼されたリルケは、1902年パリのアトリエを初めて訪れてロダンに深く傾倒した。その後、1905年9月から1906年5月までロダンの秘書を務めた。芸術家としての成功とともに多忙になったロダンは、通信事務を肩代わりする秘書を必要としたのである。1899年以来亡くなるまで雇用した私設秘書は、延べ40人以上を数える。リルケは、ロダン宛ての手紙を無断で開封したと誤解され、突然解雇された。1908年に一時的に和解・交流するが、その後再び袂を分かった。
 ロダンとその芸術に関するリルケの評論は、1913年にライプツィヒで出版された『オーギュスト・ロダン』にまとめられている。


オーギュスト ・ロダン《青銅時代》1876-77年 ロダン美術館

S:スキャンダルと成功 scandale et succès

 1877年、ロダンはブリュッセルの芸術家クラブに《敗者》のタイトルで彫刻作品を出品した。同年、同じ作品をパリのサロンには《青銅時代》の名で発表した。現在にまで伝えられているロダン制作の等身大の像としては、最初の作例である。発表時、この作品は、人体から直接型を取ったとして非難された。作品名と主題の曖昧さもさることながら、余りにも自然で現実的な肉体に人々は不信を抱いたのである。ロダンは型取りの嫌疑をはらすため、モデルとなったオーギュスト・ネイの写真と彼から取った型を審査員に提出した。3年後のパリのサロンで、ブロンズの《青銅時代》は3等賞を受賞し、国家買い上げとなった。その数ヵ月後には、国から《地獄の門》制作の依頼を受けた。これは、《青銅時代》にまつわるスキャンダルで出発したロダンが、以後の作品の展開のみならず、彫刻家として成功の道を歩み始める一大転機となった。
 1880年代から1900年の万国博覧会におけるアルマ広場での大回顧展に至るころまでは、ロダンのもっとも充実した時期だった。《カレーの市民》や《バルザック》像などの記念碑的な大作はすべて、40歳から60歳頃までの充実した時代に生み出された。20世紀に入ると、ロダンの名声は芸術界だけでなく世俗的にも高まった。ブロンズの《考える人》(拡大版)が、募金の呼びかけの結果、1906年にパリのパンテオン正面に設置されたのは、ロダンへの公の評価がすでに確立していたことを物語る、象徴的なイベントである(現在は、パリのロダン美術館にある)。


T:タンギー爺さん Le Pére Tanguy

 ロダン美術館には、《タンギー爺さん》を含むファン・ゴッホの油彩画が3点収蔵されている。これらは、ロダンが購入したコレクションである。ふたりの芸術家は直接の知り合いではなかったが、画商だったゴッホの弟テオとロダンとは手紙を数回やり取りしており、またゴッホは、1889年に開催された「モネ/ロダン」展のカタログが興味深かったことを、やはりテオに宛てて書いている。
 タンギー爺さんことジュリアン・タンギーは、パリに画材店を構え、当時作品がさっぱり売れなかったゴッホらを支援していた人物である。ゴッホが描いた《タンギー爺さん》の肖像画は全部で3点あり、ロダン所有の1点はおそらく最後に制作されたもので、もっとも完成度が高いとされている。ジャポニスム(日本趣味)を広く理解し、そこから影響を受けたゴッホの芸術を証明するように、6枚の浮世絵を背景にして、椅子にどっかりと腰掛けた、実直そうなタンギー爺さんを真正面から捉えた、独特な構図の作品である。


フィンセント・ファン・ゴッホ《タンギー爺さん》
1887年 ロダン美術館

U:ウゴリーノ Ugolin

 13世紀、大逆罪を宣告されたウゴリーノ伯爵は、息子や孫たち4人とともに、ピサの飢餓の塔に幽閉されて餓死するのを待つばかりだった。苦悶の父親に子どもたちは自らの肉体を差し出すが、誘惑に負けたウゴリーノは、その死体を食らった罪で、地獄に落とされた。
 ダンテが描いた人間性の壮絶な闘いを、ジャン=バティスト・カルポーはすでに1862年に取り上げた。飢餓に苦しむあまり両手を噛みしめたウゴリーノが、4人の子どもたちを従えて座る、ピラミッド型の群像形式の作品である。ロダンの《ウゴリーノとその息子たち》には、人物たちの組み合わせ方を変化させた多数の作例が知られる。カルポーの伝統的な群像構成と異なり、単体においても、また《地獄の門》左扉にはめ込む際にも、ロダンはウゴリーノを四つん這いにしてその獣性を強調することで、独創的な作品に仕上げた。


《地獄の門》左扉下部 静岡県立美術館

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