研究ノート 福田平八郎筆《雪庭》と徳岡神泉筆《雨》をめぐって 森 充代
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福田平八郎筆《雪庭》(図1)と徳岡神泉筆《雨》(図2)は、当館の所蔵する近代日本画の中でも代表的な作品である。制作されたのはともに昭和30年代で、《雪庭》は昭和33(1958)年、《雨》はその6年後になる。この2人の画家、そして2つの作品には共通する点が多々あるが、それにもかかわらず、画面から受ける印象には大きな隔たりがある。昨年の「日本画の情景」展では隣り合わせに展示されていたので、比較しながらご覧になり、この隔たりについて考えたという方もおられるかもしれない。この場を借りて、私もその問題について考えてみたい。 初めに、この2作品の共通点を挙げておこう。ともに庭の一隅をそのまま切りとってきたかのような身近な情景を、上から見下ろして描く。《雪庭》では庭石の下方に陰がつけられている点、《雨》では雨粒の波紋が楕円形をしている点などからみて、真上からではなく斜め上方から見下ろしていることが分かる。作品名が示すとおり、積もった雪、降り出した雨など、いずれも主眼は自然の様相の描写に置かれている。描かれるのは石とその周辺にしぼられ、色数も限定されているが、絵具は微妙に変化をつけて幾重にも塗り重ねられ、複雑で深い色合いを見せる。《雨》の方が2倍以上と、画面の大きさに違いはあるにしても、モチーフの選択や構図、色彩など共通する要素は数多く挙げられる。 作品に類似点があるように作家同士にもつながりがある。福田平八郎(1892-1974)は大分市の出身で、京都に出て絵を学んだ。対象の観察と写生を基礎に置ながら、それを単純化し、明快な画面構成と色彩による装飾性豊かな絵画世界を作り出していく。一方、徳岡神泉(1896-1972)はもともと京都に生まれた人で、平八郎と同じく京都市立絵画専門学校に学んでおり、2人の在学期間は3年間重なっている。学校では優秀な成績を修めた神泉であったが、文展には落選を続け、ついには精神的に行き詰まり一時京都を離れて富士山麓に移り住むなど、煩悶の時期を過ごした。この時期の執拗なまでの細密描写、そして帝展入選後の装飾性の優った作風などを経て、簡潔な構図の中に深い精神性をこめた独自の様式を見出していく。家が近く親交もあったというこの2人の画家は、京都に住み、帝展・日展を舞台に活躍したというだけでなく、花鳥・静物を得意とし、制作にあたっては観察と写生をその基礎に置くという画家としての姿勢にも共通したものがある。にもかかわらず、《雪庭》と《雨》、それぞれの画面から受ける印象は、なぜこれほど異なるのだろうか。 平八郎は同一主題を繰り返し描くことが多いが、雪も好んで取り上げた題材のひとつで、その様々な表情を描き尽くそうとする。《雪庭》の場合、地面はうっすらと白いが、石の上の雪はすでに消えているので、降り止んでしばらく経った頃なのだろう。白色の淡くしっとりした色づかいは見事で、雪の微妙な質感を描き分けようとするこの態度には、画家の鋭敏な観察眼と感性をみることができる。率直な観察の成果が、生来の優れた色彩感覚に助けられ、単純化された平明な色と形によって表現される。平八郎のこのような態度は、ときに抽象的ともいえる画面に到ることもあったが、その根底に写実へのこだわりがあることは間違いない。率直に自然を見た平八郎には、見たものをいかに絵画にするかが課題となり、その際、観念的・主観的な要素が混じる余地はなかった。平八郎の鋭敏な目が捉えた自然の姿は、それだけで描く目的となった。《雪庭》も、限られたモチーフによる単純な構成ではあるが、その裏には自然を見つめる画家の確かな目が確認できる。 この点で神泉は異なる。端的にいってしまうと、神泉は、目に見えないものを視覚芸術たる絵画でどう表現するか、という問題に正面から取り組んだ画家であった。目に見えないものとは、「散る花びらが地に触れるその瞬間の空間の充実、ついには花びらでもなければ音でもない、宇宙の核と相通じるような心境」iという世界である。そして神泉が長い苦悩の末にたどり着いた独自の画風とは、もはや地面や水や空といった背景ではなく、モチーフと同じ存在感と意味を持たされた印象的な“地塗り”の上に、モチーフのエッセンスだけを抽出した静謐な世界であった。当館所蔵の《雨》の場合、地塗りの部分が池という本来の意味を回復している点において、実は典型的な神泉様式とはいい難い。しかし、ここで描かれている池と石は、やはり目に映った単なる庭の一隅ではないのである。大きな石を中央に配する安定した世界の静寂は、雨粒の波紋によって破られ、雨が降り始めたその一瞬の緊張感を閉じ込める。そしてそこには、静の空間が動へと切り替わる瞬間を見つめる、画家自身の心の動きが託される。池は明らかに水面として表されているが、物質としての水の描写に力点は置かれない。神泉様式の最も高揚した時期の地塗りに比べると、確かに描写の密度は低くなっているが、それでも、見る人を引きこむような底知れぬ空間としてこの部分は描かれている。 同じく《雨》と題された平八郎の作品(図3)と神泉とを比較してみると、その性格の違いが一層はっきりしてくる。画室から見える屋根瓦の線の組み合せに興味を持っていた平八郎は、瓦に跡を残しては消えてゆく「生きものの足跡のよう」な夕立ちの雨に感興を覚えて、この作品を制作した。だが、「しかし私は最後には瓦の構成を主とし、雨を副としてこの作品を描き上げました。」iiと語るように、作品の主眼は瓦の構成の妙にある。整然と並ぶ瓦に一瞬一瞬跡を残しては消えていく雨の描写力にはすばらしいものがあるが、それはあくまで副次的な要素である。平八郎は屋根瓦を見、瓦に落ちる雨脚を見、それが瓦に残す足跡を見た。そしてそれを、優れた観察眼と的確な技術の裏付けのもと、率直に画面にのせている。見る人を引きこむような幽遠な情感を持つ神泉の《雨》とは、まったく対照的といえる。
徹底的に自分の目を信じ、そこで知覚されたものをいかに写実と装飾のバランスをとりつつ絵画に表すか。かたや、物体を通して宇宙の本質に迫り、目に見えない心で感得するような世界を絵画でいかに表現するか。同じ時代、同じ場所で、同じく写生を制作の基礎に置ながらも、この2人の求める絵画世界はこれほど遠いところにある。しかし、その試みが極まった地点において、図らずも相通じる画面に到ることがあり、ここで取り上げた2つの作品はそのような例といえる。そして、この対照的な2つの行き方には、この時代の日本画の持つ可能性の広がりを見ることができるのではないだろうか。そしてこのことは、近代日本画を考える上での普遍的な問題につながっていくと思われる。だが、この点について考えるには、まだ筆者の準備が不足している。今後の課題にしたい。
(当館学芸員)
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i.徳岡神泉談「遍歴の底に」『芸術新潮』11-8 昭和35(1960)年8月 ii.福田平八郎「自作回想」『三彩99』 昭和33(1958)年4月 |
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