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研究ノート
ルドヴィーコ・カラッチからドメニキーノへ
《エルミニアと羊飼い》をめぐる一考察


小針由紀隆

 1980年代の中頃、スペインのラ・グランハで1枚のカンヴァス画[図1]が見つかった。スペイン側の調査の結果、このカンヴァス画は、ボローニャ派の画家、ルドヴィーコ・カラッチ(1555-1619)の《エルミニアと羊飼い》であることが明らかとなった。ルドヴィーゴのこの作品は、「エルミニアと羊飼い」を油彩で描いた最初の作例と言われながら、すでに失われたと信じられていただけに、スペインで新発見されたという事実と、その事実によって浮かび上がる新たな疑問は、本作に対する我々の関心をいっそう掻き立てることになった。

 本作品は、第1回十字軍を題材にしたトルクァート・タッソの長編叙事詩、《解放されたエルサレムGerusalemme Liberata》(1581年初版)の第七書を主題の典拠としていた。サラセンの王女エルミニアは、キリスト教徒の一戦士タンクレディに心を奪われる。タンクレディが負傷したと聞いたエルミニアは、友人の女戦士の鎧で変装し、タンクレディを求め探し回る。ヨルダン河畔で一夜を明かした彼女は、小屋の外で籠を編む羊飼いと、楽器を奏で歌う3人の息子たちに出会うことになる。そして羊飼いは、エルミニアに静かで平和な牧歌的生活の喜びを、じっくり話して聴かせるのだった。−−ルドヴィーゴ・カラッチがラ・グランハの作品で描いているのは、女戦士に変装したエルミニアの突然の出現に羊飼いが驚き慌てている瞬間なのである。

 ルドヴィーコがこの作品を描くに至った経緯は、幸いなことによく判っている。主題選択と制作依頼は、ボローニャ出身の美術理論家、ジョヴァンニ・バッティスタ・アグッキ(1570-1632)によるものだった。タッソの《解放されたエルサレム》第七書からインスピレーションを受けたアグッキは、エルミニアと羊飼いのいる風景を描くためのプログラムを作成したのち、そのプログラムに基づく作品の制作をルドヴィーコに依頼した。その際両者の仲介役を果たしたのは、ボローニャ大聖堂参事会員にして、アグッキの知人でもあったバルトロメオ・ドルチーニという人物だった。アグッキのプログラムは、1602年に私信(日付なし)としてドルチーニに宛てられていたので、おそらくルドヴィーコは、ドルチーニを介してそのプログラムの内容を知ったのだろう。

 ルドヴィーコによる《エルミニアと羊飼い》は、1603年の復活祭にローマのアグッキ邸に届けられた。しかし、ローマにおける評価は散々だったと言われてきた。「ローマにいたあらゆるボローニャ派の画家たちに待ち望まれたルドヴィーコの絵は、1603年の復活祭にローマに到着したが、疑いなく彼らを落胆させることになった」(C.ウィットフィールド 1973年)(1)ルドヴィーコの《エルミニアと羊飼い》がボローニャ派の画家たちを落胆させたというこうした指摘には、勿論根拠があった。その根拠とは、アグッキからドルチーニに宛てた1603年5月3日付の書簡にあった。この書簡によれば、緑の絵具は上層のニスとともにまだ乾燥しきっていなかったため、梱包材として用いられた紙が画面に付着してしまった。そこでアグッキは、ローマで名声を獲得しつつあったルドヴィーコの甥のアンニーバレ・カラッチに修復を頼もう、と述べている。さらにアグッキは、自分が想定していた以上に、カンヴァスが大きかったことも書き加えている。

 ところが、その書簡は中段から意外な展開をみせている。A.エミリアーニ(1993年)(2)も指摘しているように、アグッキの不満はルドヴィーコ作品への賛辞に取って代わられるのだった。澄んだ河の流れ、優美なエルミニアの所作などを挙げてから、‘私は大変満足している rimango piu sodisfatto’と感想を記しているのである。また、プログラムの記述と風景描写の間にも符合しない点が見出される。アグッキは先に紹介したプログラムの末尾で、ヨルダン河畔の風景は‘静かで幸福なアルカディアのように’描かれるのがよいと奨めているのにも拘らず、ルドヴィーコ作品は、乳白色の雲を伴う暗鬱な空と花一つ咲かない凸凹の荒地を描き出しているのである。アグッキが「たいへん満足してる」と書いているのは、いったい何故なのだろうか。

 プログラムの記述と風景描写をめぐる不一致について考えるとき、我々はアグッキによって1602年に書かれたもう1通のドルチーニ宛ての書簡(日付なし)に立ち返る必要があるだろう。その書簡においてアグッキは、持ち前の創意をこらし、荒海が穏やかになっている間に波間に巣をつくるカワセミ(鳥)の話を引き合いに出し、その話を自らのモットーである“安息は騒乱の中に In inquieto quies”と関連させているのである。つまり、戦場の近くで平和に過ごす羊飼いと、荒波の中に安息の場を求めるカワセミには、ローマ教皇クレメンス8世の宮廷で雑事に忙殺されながらも、平静な文筆活動を望んでいたアグッキ自身が投影されているのである。この書簡を受け取ったドルチーニは、仲介の際にそうした対応をも併せてルドヴィーコに説明したのではないか、と推測される。

 ここでもう一つの《エルミニアと羊飼い》に目を向けてみたい。現在ルーヴルに所蔵されているドメニキーノ(1582-1641)のカンヴァス画[図2]がそれである。ごつごつした険しい岩山と枝葉を突き上げる孤立した大木。大きく蛇行しながら流れる河。白んだ空に浮かぶ灰色の雲。−−深緑色と暗褐色が交じり合い重苦しい雰囲気を醸す水辺の風景は、女戦士と半裸の父子を画面の最前景に明るく浮かび上がらせている。

 このドメニキーノ作品は、ルドヴィーコ作品と同じく、整地されていない水辺にエルミニアと羊飼いの出会いを描き込んでおり、やはり晴朗なアルカディアの風景とは大きく異なっている。17世紀前半、「エルミニアと羊飼い」の主題は、ボローニャ派の画家たちによって相次いで取り上げられたが、数ある作例の中でこういった暗鬱な風景を描いているのは、ルドヴィーコとドメニキーノだけと言ってよいだろう。

 ローマのアグッキ邸に1604年頃から寄宿していたドメニキーノは、ルドヴィーコ作品を間近に見て、その作品についてアグッキと批評しあったに違いない。ドメニキーノ作品の制作年は一般に1620年代前半(異論もある)と推定されているが、この説に決定的な論拠を見出すことはできない。また、後方の風景描写には別の画家が関与していた、という意見も出されている。しかし、これら未解決の問題があるにせよ、ドメニキーノはルドヴィーコ作品を図像の源泉として参照していたのだった。

 ドメニキーノは、プログラムの単なる絵解きを目指したのではなかった。彼は、ルドヴィーコ作品に見た或る側面を、ルーヴルの絵でいっそう強調していた。エルミニアの出現に驚く羊飼いは、ルドヴィーコのそれより、はるかに野蛮な風貌で描かれ、ヨルダン河畔も荒涼とした不毛の土地となっているのだ。そこに窺えるドメニキーノの意図は、「エルミニアと羊飼い」の舞台を、アグッキの奨める静かで晴れやかなアルカディアとは逆の風景に仕立てることであり、それは今日とは別のアルカディア観の絵画化でもあった。もしそうだとすると、17世紀初めのローマでは、そういったアルカディア観が画家たちにも伝わっていたと言うことになるだろう。

(当館主任学芸員)

(1)

Whitfield, Clovis "A Progaramme for 'Erminia and the Shepherds'
by G.B.Agucchi. " Storia dell'arte 19(1973), pp.217-29
.
(2)
Ludovico Caracci, Exh. cat. ,Kimbell Art Museum, edited by
Andrea Emiliani, Electa/Abbeville, 1994, pp.125-29.


図1 ルドヴィーコ・カラッチ
《エルミニアと羊飼い》
ラ・グランハ、王宮

図2 ドメニキーノ
《エルミニアと羊飼い》
ルーヴル美術館

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